2019年8月25日 のアーカイブ

マタイによる福音書 27:32~44
「兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」(27:32) 

 偶然そこを通りかかったキレネ出身のシモンという人が主の十字架の木を担がされました。シモンは自分の不運を呪ったでしょう。しかし、この事がシモンの人生を、自分が担った十字架の意味を証しするものへと変えました。
 シモンが巡礼に来ていたエルサレムで主の十字架を担ったことは単なる偶然ではありません。神はこのようにしてシモンを召されたのです。信仰者は、自分の手で信仰を勝ち取っていくのではありません。まさか、という所へと導かれ、主の不思議を見せられ、信じざるを得ないところへと召され、自分が証しの器として用いられていくのです。
 イザヤは「私達が見たことを誰が信じ得ようか」と預言しました。血を流して苦しまれる主イエスが、実は神御自身であったこと、主に罪を担わせた私達が、主の痛みによって罪の涙を拭われること。主を見捨てた私達が今許されて教会へと招かれ、礼拝の恵みに与っていること。全て、信じられないほどの恵みです。

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