2019年8月 のアーカイブ

マタイによる福音書 27:32~44
「兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」(27:32) 

 偶然そこを通りかかったキレネ出身のシモンという人が主の十字架の木を担がされました。シモンは自分の不運を呪ったでしょう。しかし、この事がシモンの人生を、自分が担った十字架の意味を証しするものへと変えました。
 シモンが巡礼に来ていたエルサレムで主の十字架を担ったことは単なる偶然ではありません。神はこのようにしてシモンを召されたのです。信仰者は、自分の手で信仰を勝ち取っていくのではありません。まさか、という所へと導かれ、主の不思議を見せられ、信じざるを得ないところへと召され、自分が証しの器として用いられていくのです。
 イザヤは「私達が見たことを誰が信じ得ようか」と預言しました。血を流して苦しまれる主イエスが、実は神御自身であったこと、主に罪を担わせた私達が、主の痛みによって罪の涙を拭われること。主を見捨てた私達が今許されて教会へと招かれ、礼拝の恵みに与っていること。全て、信じられないほどの恵みです。

マタイによる福音書 27:27~31
「総督の兵士たちは・・・イエスの着ている物をはぎ取り・・・『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。」(27:27~28) 

 兵士たちが主イエスに対してしたことは、戴冠式でした。楽しんで主を侮辱したのです。
 この兵士たちにこの後何が起こるか、ということを見ると不思議です。「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱した彼らが、主イエスの十字架の死を見て、「本当にこの人は神の子だった」と信仰を告白するのです。
 最も信仰者として相応しくない人達でしょう。しかし、「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主がおっしゃったように、一番キリストの十字架に近いところにいる罪人へと、神の赦しと招きは向かったのです。
 主イエスは、唾を吐かれながら、ご自分が十字架で背負う彼らの罪の重さを噛みしめていらっしゃったでしょう。「自分はキリストの十字架とは関係ない」と言う人ほど、十字架の赦しを必要としているのです。

マタイによる福音書 27:15~26
「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』」。(27:26) 

 ピラトは「この人の血について、私には責任がない」と言いました。無実の人イエスを叫ぶ群衆に引き渡したピラトには、「自分はこのようにして暴動を防いだ」という言い分があったかもしれません。
しかし、このことは神の目にどう映ったでしょうか。既に、彼の妻の夢を通して、「この人は正しい」と伝えられているのです。
ピラトの声に答えて、民衆は「その血の責任は、我々と子孫にある」と言いました。あの時、あの場所にいた人達と、その子孫だけに主の血の責任がある、ということでしょうか。
聖書の原文では、「全ての民族が」答えた、という書き方をしています。「あなたもあの群衆の中にいて、そう叫んだのだ」ということを聖書は暗に私達に突き付けるのです。この世の誰も、主の血の責任から逃れることはできません。
 私達は、聖書から強く問われます、「あなたが恐れるのは、人の目か、神の目か」。復活のキリストに許された信仰者は、悪魔の誘惑以上に畏れるべきものを知って歩むのです。

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