2019年7月 のアーカイブ

マタイによる福音書 27:15~26
「『どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』」。(27:17) 

 この朝ピラトの官邸に集まって来たのは、神殿の境内で主イエスの教えや御業に触れた巡礼者たちではなく、エルサレムの地元の人たちでした。ピラトは「メシアといわれているイエス」という呼び方で、無実である主イエスの方を選ばせようと何気なく誘っています。
ピラトの妻からの伝言が届き、ピラトがそれを聞いている間に祭司長たちや長老たちは、「ナザレのイエスを死刑に」と民を説得しました。民衆は一瞬にして「イエスを十字架に」と叫ぶ暴徒と変わりました。
 何が無実の主イエスを十字架へと上げたのか、誰にも説明はできません。「罪が人々に働き、そうさせた」としか言いようのないことです。
 皮肉にも民衆は「二人のイエスのどちらかを選べ」と問われます。私達も「主イエスか、ほかの何か」という選択の岐路に立たされます。「メシアだと言われているイエス」という曖昧な捉え方が、民衆の道を誤らせました。この方の血によって救われた者は、この方を「キリストといわれているイエス」ではなく、「イエス・キリスト」と呼ぶのです。

マタイによる福音書27:1~14
「『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。』」(27:4) 

 「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔した」とあります。ユダはまさか主イエスに有罪判決が下るとは思っていなかったようです。ここに来てユダは後悔しました。
 この朝、ペトロとユダの2人の弟子達が、主から離れたことが証しされています。ペトロは後に主に立ち返り、ユダはその場で自らの命を絶ちました。2人のその後の明暗を分けたのは何だったのでしょうか。
 2人を分けたのは、キリストに立ち返ったかどうか、ということでした。ペトロは「ガリラヤで会おう」という主の言葉を信じました。そこにしか自分が再び生きるための道がなかったのでしょう。ユダは神殿に銀貨を放り込んで自分を慰める以上の事が出来ませんでした。「見よ、私はお前たちの前に命の道と死の道を置く」(エレ21:8)。これは私達にとっての岐路でもあります。
 遂に主はピラトの前に立たされました。「屠り場に引かれる沈黙の羊」(イザ53章)として、最後まで沈黙を貫かれました。主はこの時、「私の願い通りではなく、御心のままに」という祈りをもって、「今なら引き返せる」というサタンの言葉と戦われていたのではないでしょうか。

マタイによる福音書 27:1~10
「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そしてイエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。」(27:1) 

 「天が地を高く超えているように、私の道はあなたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを高く超えている」(イザ55:8)とあるように、主の十字架は人々の思いを越えて実現して行きました。
 ユダも、祭司長たちも、ピラトも、ここに出て来る人間たちのそれぞれの計画は実現していません。ただ愚かな罪人たちの思いを越えて神の救いのご計画のみが実現していきます。これこそ、聖書が私達に突きつけていることではないでしょうか。
 創世記のヨセフ物語では、ヨセフが銀20枚で兄たちに奴隷に売られてしまいます。しかしヨセフは最後にはエジプトの宰相になりイスラエルの家を救うことになります。兄たちと再会を果たしたヨセフは「命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創45:5)と言いました。神のご計画ははかり知ることが出来ません。
 主を十字架に上げた私達に「私は、あなたを許すために殺されたのだ」という声が聞かされること。これ以上の不思議はありません。

マタイによる福音書 26:69~75
「ペトロは・・・イエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(26:75) 

 ペトロが「ナザレのイエスなど知らない」と言いました。それはイエス・キリストが、世の全ての人から見捨てられた瞬間でした。
 主を知らないと言い、危機を脱したペトロの耳に、鶏の鳴き声が聞こえました。彼は主の言葉を思い出し、泣き崩れます。
 ペトロはもう終わりでしょうか。そうではありません。主は、三度ご自分を否むことになるペトロに、「ガリラヤで会おう」と仰ったのです。本当の意味でのペトロの弟子としての歩みはここからなのです。
 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることの無い救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリ7:10)とパウロは書いています。ペトロの涙は、悔い改めに通じる、神の御心に適った悲しみでした。
 「無学で普通の人であったペトロ(言行録4:13)」は、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜ぶ」(言行録5:41)者とされました。どん底にまで堕ちた所で、復活の主が赦しの御腕をもって受け止めてくださった、だからペトロは明るみで「私はあの方を知っている」といるようになったのです。

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