2019年6月 のアーカイブ

マタイによる福音書 26:57~68
「私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」(26:64) 

 実質は、これは裁判ではありませんでした。もう判決は決まっていました。イエスは死刑です。問題はそれをどう正当化させるか、ということでした。
 偽証人が現れますが、主イエスを決定的に追い込むことはできませんでした。その間主はただ、黙り続けていらっしゃいました。業を煮やした大祭司は、「お前は神の子、メシアなのか」と直接尋問します。
 主イエスは沈黙を破り、ご自分こそ全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくる神の子・メシアであることを宣言されました。神を自称し、神を冒涜したとして、主イエスは有罪とされ、唾をはかれ、殴られました。
 この晩、主イエスが口を開かれたのはこの一言だけでした。あとは、抵抗せず黙って殴られ続けました。「苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザ53:7)。
 神がイザヤを通して到来を約束されていた苦難の僕は、実は神御自身でした。主イエスは右の頬を殴られながら、左の頬を差し出し、ご自分を殴る相手のために赦しを祈り続ける戦いを続けられたのです。

マタイによる福音書 26:47~56
「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」(26:56) 

 ゲツセマネの園で対峙する逮捕の一団と弟子達、そしてユダに主イエスがおっしゃったのは、聖書の言葉に心を向けなさい、ということでした。神が羊飼いを討ち、羊たちが散らされ(ゼカ13章)、それぞれの方角に向かって散っていった羊たちのために苦難の僕が傷を負う(イザ53章)、という預言者たちの言葉が実現するのです。
 主を引き渡す合図としてユダは「先生、こんばんは」と挨拶します。ユダは最後まで主イエスを「主」と呼ぶことはありませんでした。これに対して主イエスは「友よ」と返されました。偽りの愛をもって近づくユダに、主は最後まで真実の愛を貫かれました。
 大祭司の手下に打ちかかって耳を切り落とした者に、主は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃいました。これは創世記の初めから人に示されて来た神の契約の言葉です(創9:5以下)。
 神の国は剣によってつくられるものではありません。神の似姿として神がお求めになる平和を築き上げていくところに実現します。

マタイによる福音書 26:36~46
「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」(26:42) 

 主はゲッツセマネにペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴われました。三人にお命じになったことは「私と共に目を覚ましていなさい」、それだけのことでした。「私の姿をよく見ていなさい」ということです。
 弟子達はしかし、眠ってしまいました。主は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃいます。心がどれだけ燃えても、誘惑と向き合うには祈りしかないのです。
 もう一度戻って来られた主イエスは、それでも弟子達が眠っているのをご覧になって、何も言わず、再び祈りの場へと戻って行かれました。もう一緒に目を覚まして共に祈ってくれる友がいないことを知り、今度こそ孤独の祈りの戦いとなりました。
 あの晩眠ってしまったことを、3人の弟子達はどれほど後悔したでしょうか。ペトロは、後に教会に「目を覚ましていなさい」と訴えます(1ペト5:8~11)。主が、眠る自分たちのために祈りの戦いをしてくださったことを思い出し、涙をもって訴えたのではないでしょうか。
 神が火の柱をもってイスラエルのために寝ずの番をしてくださったように、キリストは私達のために祈ってくださいます。

使徒言行録1:3~11
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・地の果てに至るまで、私の証人となる。」(1:8) 

 イエス・キリストの弟子達の祈りの輪に聖霊が注がれ、教会が創造されました。聖霊の導きは不思議です。主イエスのことを「知らない」と言ったペトロや、教会の人々をひどい目に合わせたパウロも、使徒として教会で用いられたのです。
主イエスの十字架の後、弟子達は孤独を感じたでしょう。しかし復活の主は弟子達に現れ、「聖霊による洗礼を待ちなさい」と彼らに約束の時が備えられていることを40日間お示しになりました。
「あなたがたは私の証人となる」とおっしゃった主は天に上げられました。白い服を来た二人の人が「あの方はまた同じ有様でおいでになる」と弟子達に告げます。
弟子達は主が行かれた天を見て、「主は生きていらっしゃる、天に場所を用意してくださっている」と確信し、皆で一つになって祈りました。聖霊はその祈りの場に降ったのです。
聖霊は私達を祈りへと導き、私達の祈りが更に聖霊の力を呼びます。そうやって聖霊は私達をイエス・キリストへと導き、結びつけ、更に大きな祈りの輪を創造してくださるのです。

マタイによる福音書 26:31~35
「しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。(26:32) 

 ゲツセマネに向かう夜道、主イエスは弟子達に「聖書にあるように、今夜、あなたがたは皆私に躓く」とおっしゃいました。弟子達は驚き、それぞれが「あなたを見捨てることはありません」と主張しました。
 主イエスがここで弟子達におっしゃったのは、再会の約束でした。散らされた羊である弟子達は、主の復活の先で出発点に立ち返り、復活の主と再出発する希望が確約されているのです。
ゼカリヤ書には、神が羊飼いを討ち、散らされた羊はその先で「精錬される」という預言があります(ゼカ13章)。羊たちは鍛えられ、その先で再び羊飼いの下に戻り、「残りの者」として再出発するのです。
 ペトロの姿に見られるように、明日の夜明けまで続くかどうかもわからないのが私達の信仰です。変わらず確かなのは、「私はあなたが戻って来るのを待っている」とおっしゃってくださるインマヌエルの主の招きです。

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