2019年5月 のアーカイブ

マタイによる福音書 26:26~30
「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(26:28) 

 キリストは、私達の過越しの子羊として屠られました(1コリ5:7)。教会は聖餐卓を囲み、イエス・キリストを通して起こされた新しい過越し・新しい出エジプトを記憶し、祝います。
 主はご自身が流される血のことを「契約の血」とおっしゃいます。エルサレムで弟子達と囲まれた過越しの食卓が、主イエスにとって地上での最後の食事となりました。
しかし、これが行き止まりではありません。主は「神の国で弟子達と共に新たにぶどう酒を飲むその日」を見据えていらっしゃいます。主は「あなたがたと共に」とおっしゃいます。これからご自分を見捨てることになる弟子達と共に、ということです。主は「いつでもここにいてあなたが立ち返るのを待っている」とおっしゃるのです。
 キリストはご自身の血をもって、天の故郷への道を切り開いてくださいました(ヘブ10:20)。イスラエルがエジプトの奴隷から神の宝の民とされたように、罪の奴隷であった私達はキリストの宝とされています。新しい神の民イスラエル・教会が創造されたのです。

マタイによる福音書 26:17~25
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。」(26:24) 

 家族でもたれる過越しの食卓を、主イエスは弟子達と共に囲まれました。弟子達をご自分の家族としてご覧になっています(12:49)。その中に「裏切ろうとしている」者がいる、とおっしゃいます。
 弟子達は「主よ、まさか私の事では」と代わる代わる言い始めます。しかし主は、それが誰かをおっしゃいません。それ以上に弟子達にお伝えになっているのは、「聖書に書いてあるとおりに」ご自分が去って行かれる、ということでした。
 「聖書に書いてある通り」とは、イザヤ書53章の苦難の僕の歌のことが言われているのでしょう。「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」神の救いは、誰にも理解されないまま実現していきました。
 ユダは弟子達の中でただ一人、主イエスのことを「先生」と呼んでいます。「主」、ではなく「先生」です。「先生」以上の方として見ることが出来なかったようです。
 私達の前にはいつでもユダの道があります。キリストの元に留まる信仰の戦いは、「聖書に書いてある通り」になる、という希望があるからこそ続けられるのです。

出エジプト記 20:1~21
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(20:8) 

 十戒を通して契約を結んだ神とイスラエルがまずしたことは、幕屋建設でした。神は、7つの言葉によって、荒野に礼拝のための幕屋を創造されます(出エジ25:1、30:11、17、22、34、31:1、12)。荒野に安息共同体の姿が立ち上がっていきます。
 イスラエルは、神と共にこの世に礼拝を造り上げていく民です。荒野の旅の中で、神は時間の支配者としてイスラエルの歩みを守られました(出エジ40:36~37)。今でもそれは続いています。キリストが週の初めの日に復活されてから、教会は日曜日に礼拝の時を持ち、キリストの復活を記念する時として聖別するようになりました。それは、死に勝る力に包まれ、天の故郷へと心を向ける安息の時です。
 アブラハムは神から夜空を見るよう言われ「あなたからこの星のように数えきれない祝福の民が生まれる」と約束されました。私達が、アブラハム契約の実現です。
 私達の礼拝が、次の礼拝を生みます。教会は聖なる時間によって生かされながら、この世に聖なる時間を創造する業に加えられているのです。

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