2019年4月 のアーカイブ

出エジプト記 20:1~21
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(20:8) 

十戒は、どこかにいた神が突然現れて、「これを守れ」と人間に与えたものではありません。エジプトの奴隷生活から荒野を共に乗り越えて来た神とイスラエルが、「わたし」と「あなた」と呼び合いつつ、契りを結ぶ、契約の言葉です。
十戒は、安息日を心に留め、聖別することをイスラエルに求めています。安息の時間を聖別するのはイスラエルだけではありません。神も、イスラエルと共に安息日を聖別してくださいます。
神が天地創造の際そうなさったように、私達の、生きる為のマナをかき集める手を止めます。そして神と共にこの「極めて良い」世界を見つめる時間をもちます。礼拝の時の中で、私達は「神の恵みによって今日の私がある」(1コリ15:10)ことを、天地創造にまで遡って思い返すのです。
神は、この世界と共に礼拝の時間を創造してくださいました。十戒は、荒野から聞こえる誘惑の声から私達を守ってくれます。礼拝の中で沈黙し、天地創造から今に至る神の招きの恵みを思う聖なる時間が、この世界を歩む私達の生きる力となります。

マルコによる福音書 16:1~8
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。・・・さあ、行って弟子達とペトロに告げなさい」(16:6~7) 

 ペトロの名前が特にあげられています。この時一番苦しんでいたのはペトロだったからではないでしょうか。
 主が十字架にかけられてから三日間、彼は泣いていたのではないでしょうか。主を見捨て、否定し、結局自分のことが一番大事だったことを思い知らされて、恥と後悔と情けなさの中を過ごしていたでしょう。
 主イエスは、そのペトロの弱さを既に御存知でした。「あなたが私を知らないと言っても、私はあなたがまた私の所に戻って来るのを待っている」と前もっておっしゃっていたのです。
 私達がこの世界で生きる時間は、神の目には一瞬です。その一瞬の間に、私達はペトロのように「イエスなど知らない」と言ってしまい、苦しみます。神から離れた人間は苦しむのです。
 しかし、主イエスはその苦しみを知っていてくださいます。「重荷を負うている人は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」という復活の主の声に耳をすませましょう。。

詩編22編
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。」(22:25) 

 「貧しい人」という言葉が繰り返されています(25、27節)。これは、神が無くては生きていけないという貧しさです。一滴の水を求めるように神の御声を求めている人達、それが礼拝者の姿です。
人々から嘲られながらも続ける祈りは無駄には終わりません。「私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」という叫びは、「主は私の羊飼い。私には何も欠けることが無い」という23編の言葉へと変えられていきます。
祈りに応えてくださった神の御名を、「私は兄弟たちに語り伝えます」と詩人は歌います。祈りが集まれば礼拝の群れとなります。礼拝の群れは、共に讃美を捧げます(26~27節)。讃美の輪は兄弟に、集会の会衆に、全世界に、既に死んだ者、まだ生まれていない者たちにまでも広がり、全てが神の支配の内におかれていきます(28~32節)。
イエス・キリストの「天の国はあなたがたのものだ」という言葉を祈りの中で聞いた信仰者自身、そのまま神の救いの徴となり、その人の礼拝の生活がそのまま証しの生活となるのです。

詩編22編
「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。」(22 2) 

 絶望から希望へ、苦しみから讃美へ、孤独から喜びの群れへ・・・極から極へと至る祈りの詩です。
 詩人は霊の渇きを覚えています。「私の神よ」と呼び掛け、神が「私の神」であることを信じぬこうと、自分の祈りの言葉をぶつけて戦い続けます。
 22節まで続いた苦しみの訴えは、23節から突然讃美へと変わります。私達は苦しみと讃美の間にキリストの十字架を見ます。キリストの十字架を踏み越えて、私達は讃美の礼拝へと進み出て行くのです。 
 罪による死を前に「私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫ばなければならなかった私達に代わり、主が十字架の上で詩編22編を歌い上げてくださいました(ヘブ2:17)。それによって私達を讃美の礼拝へと押し出してくださったのです。
詩編は礼拝の中で祈られ、今に至るまで受け継がれて来ました。罪人の祈りの叫びが讃美へ変えられる創造の御業は、キリストの十字架が証しされる礼拝の中で起こり続けています。

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