2019年2月 のアーカイブ

マタイによる福音書 24:45~51
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。」(12:45) 

「主人と僕」は、キリストと弟子達、神と教会を表しています。
「忠実」は「信仰」の類義語です。パウロは「私達は神の秘められた計画の管理者です」「我々管理者に要求されるのは忠実であることです」と言っています(1コリ4章)。主に忠実であることの先に、主人の全財産を管理させていただく、つまり主の御業を担わせていただく幸い・祝福が待っています。
悪い僕は、主人の喜びではなく、自分が主人になる喜びを求めました。今自分がいるのは、主人の家であり、自分が殴っているのは主人の僕たちであり、そして自分も本当は主人の僕であるということすら忘れてしまいました。イスラエルが繰り返し陥った、一番大切なことを忘れてしまった信仰者の姿です。「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いた、などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい」(申命記8:17)。
私達の今が、主人が戻って来る時に向かっている今であることを忘れないことが、既に勝利なのです。

マタイによる福音書 24:26~44
「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。この事をわきまえていなさい。」(24:42~43) 

 キリストの弟子達の「主」は、「帰ってくる主」であることが大前提とされています。そして「主の帰還がいつなのか自分たちでは分からない」ことをわきまえておきなさい、と言われます。
 主イエスはノアの話をなさいました。不法の日常の中で、神は裁きのご計画を義の人ノアにお告げになりました。ノアは陸の上に船を造ります。しかしノアに倣う者はいませんでした。
「その日」まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。「その時」まで日常があったのです。誰も今自分たちの前の前にある日常が明日なくなるとは考えませんでした。神の救いへの招きに耳を傾ける人がどれほど少ないか、という現実を突きつける物語です。
 ある人は、「信仰とは神の言葉を生活することだ」、と言いました。私達の信仰は、今の生活が全てキリストとの再会への秒読みの中にあることを忘れない、というところにあるのです

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