2018年12月 のアーカイブ

イザヤ書 60:1~7
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は上り、主の栄光はあなたの上に輝く。」(60:1) 

 バビロン捕囚から戻って来たばかりのイスラエルの人たちを待っていたのは様々な困難でした。ユダの土地はサマリア人の行政区に置かれ、更に、バビロンに連行されなかったユダヤ人残留民がいました。帰還民は捕囚の期間を経て「よそ者」になっていたのです。闇を感じていたイスラエルにイザヤは主の栄光の光の到来を告げ、神の民としての歩みを続けるよう励まします。
 彼らは信仰の忍耐をもってエルサレム再建のために身を捧げていきました。540年が過ぎ、主の栄光の光が与えられました。イスラエルは救い主の誕生を見ます。イザヤが告げたように、異邦の民がこの方を拝みに来ました、ある者は黄金を、ある者は乳香を携えて。
 イスラエルの信仰を受け継ぐということは、その信仰の試練を受け継ぐことでもあります。メシアを見た教会は、迫害の中、カタコンベと呼ばれる墓の中に集まり、祈り、礼拝を続けました。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」というキリストの言葉を信じ、信仰の十字架を担い続けたのです。
 試練を生きる教会の信仰を通して、今も神の国の建設は続いています。

マタイによる福音書 1:18~25

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(1:19) 

 クリスマスは、孤独の中に起こった救いの出来事でした。福音書はキリストの両親に起こったことから描き始めます。
 この時のヨセフとマリアこそ、誰にも頼ることが出来ず、孤独に一人苦しんでいた二人でした。ヨセフは一番苦しい決断を下します。許婚の自分を裏切ったマリアを責めず、むしろ守るために自分の方から離れることを決めるのです。
 主の天使がマリアに起こったことは聖霊の業であるとの言葉を告げたのは、赦しのための孤独を担うことを決めたヨセフでした。主は孤独に苦しむヨセフをご覧になっていたのではないでしょうか。そして赦しの十字架の痛みを自ら背負ったヨセフを、キリストの父として選ばれたのではないでしょうか。
 「クリスマスの喜びなど、自分とは無縁だ」と孤独を感じる人にこそ、インマヌエルの福音は向かいます。群れからはぐれてしまった羊こそ、羊飼いに求められていることを聖書は伝えています。

マラキ書 3:1~5
「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」(3:1) 

 預言者マラキは「あなたがたが待望している主の到来の日は、喜びの日ではなく、裁きの日となる。それに絶えられるか」と問いかけ、悔い改めを促します。
イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、エルサレム神殿の再建も成し遂げました(BC515)。しかし、その後半世紀を経ても、外国による支配は終わらず、民の中に、神殿での礼拝や律法に幻滅する人たちが出てきました。
信仰に幻滅した人たちの中にはレビ人や祭司もいました。彼らは大土地所有者であったサマリアの上流階級の人たちの娘を妻に迎え、異教の信仰と共に富を得ていました。バビロン捕囚以前の不信仰の歩みに戻っていたのです。
紀元前5世紀半ばに、マラキがレビ人や祭司たちに告げた警告は、私達にキリストの再臨の日への備えの呼びかけとして聞こえます。
ヨハネの黙示録には「神と子羊の怒りの大いなる日」が預言され、「誰がそれに耐えられるであろうか」と言われています(黙示録6:17)。「神の秘められた計画を委ねられた管理者」に求められているのは「忠実であること」というパウロの言葉を刻みたいと思います(1コリ4:1~2)。

ハガイ書 2:1~9
「まことに、万軍の主はこう言われる。私は、間もなく天と地を、海と陸地を揺り動かす。」(2:7) 

 BC538年、バビロン捕囚からイスラエルの民がエルサレムへと帰還しました。人々は都の再建に努め、帰還の翌年、神殿の基礎が据えられ、人々は泣きました(エズ3:12)。
 しかし、イスラエルはサマリアの総督やアラブ人、アンモン人など、周辺の人々からの妨害工作を受けながら、廃墟の中生活を続けなければならない苦しみの中にありました。工事は中断されてしまいます。
 ダレイオス王の第二年(BC520)、預言者ハガイを通して「神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板で張った家に住んでいてよいのか」(1:3)との神の言葉が告げられました。
 ハガイは仮庵祭の最終日(2:1)に、「天と地を揺り動かす」という神の言葉を伝えます。神の現臨の預言です(出エジ19:18)。ハガイの言葉に励まされ、イスラエルは神殿を再建しました(BC515)。
 500年以上が過ぎた仮庵祭の最終日、その神殿の境内にナザレからイエスという青年が来て、大声で叫びました。「渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。動かぬ御国の祝福が、この方のもとにあります(ヘブ12:26以下)。

イザヤ書 40:1~5
「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(40:1) 

自分たちの国・故郷・神殿を失い、バビロンで捕囚の中にあったイスラエルの民は思い信仰の問いを抱いて生きていました。「私達の神は、本当に今でも私達の神なのか」。
間もなくバビロンからの解放の時を迎える捕囚の民にイザヤは、天から漏れ聞こえて来た神の声を告げます。神は捕囚民を「私の民」と呼ばれ、ご自分のことを「あなたたちの神」であると断言されます。神とイスラエルの契約関係は生きていることが示されたのです。
天の軍勢は神から命じられます。「荒野に道を備えよ」。それは神がイスラエルを迎えに行かれるための道です。イスラエルは地上の混沌の中に、道を見出します。こちら側から自分たちの手で切り開いていく道ではありません。向こうから神が迎えに来てくださる道です。
興っては滅んで行く巨大な帝国を見ながら、また、自国の滅び・神殿の崩壊・バビロン捕囚を体験しながら、イスラエルは人が神を造れないこと、人は神になれないことを知っていきました。
2000年前、一人のみどりごが生まれました。全ての人を罪から救い出し、天の故郷へと導かれる方がこの世に迎えに来てくださいました。私達にも救いの道が与えられています。

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