2018年10月 のアーカイブ

マタイによる福音書 23:31~24:2
「エルサレム・・・私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(23:37) 

 ご自分から離れたエルサレムを取り戻そうとしてきたこれまでの救いの御業に応じようとしなかった民の頑なさを、神がここで嘆いていらっしゃいます。
 「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」と主はおっしゃいます。神の家であるはずの神殿を、「お前たちの家」と呼んでいらっしゃいます。「祈りの家」が「強盗の巣」となり、人間の家となった時、神殿は滅ぶのです。
 「今から後、決して私を見ることが無い」という主イエスの言葉は、警告であり、「キリストが見えるところまで来なさい」という招きでもあります。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない・・・世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る」と弟子達におっしゃっています(ヨハ14:18~19)。ステファノは殉教の時、天を見つめ、そこにキリストのお姿を見ました(使徒8:56)。
 今、私達信仰者の群れが、キリストという土台の上に建てられた神殿です。キリストを土台としている限り、信仰のか細い線は世代を超えてつながっていきます。

マタイによる福音書 23:27~36
「地上に流された正しい人の血は全て、あなたたちにふりかかってくる」(23:35) 

 主イエスは、神殿説教の中でファリサイ派と律法学者を指して7回「不幸だ」とおっしゃいます。そのうちの6回で、「偽善者」という言葉をつかわれます。主が批判されているのは、信仰にひそむ「偽善」でした。
 「白く塗った墓」(27節)とよく似た言い方をしているのは、預言者エゼキエルです。「平和がないのに、『平和』と言って私の民を惑わすのは、壁を築く時に漆喰の上塗りをするようなものだ」(エゼ13:10以下)と、偽預言者のことを「剥がれ落ちる漆喰」と非難しています。
 神から与えられる「聞かなければならない言葉」ではなく、人々が「聞きたがる言葉」を伝える者を、「偽善者」として主は嫌われます。信仰における「偽善」が、預言者を殺してきた、というのです。
 ある人は「この神殿説教は、今、キリスト教会に真っすぐ向けられている」と言います。信仰者はいつでも、御言葉によって自分の信仰の内にあるものがえぐられます。
 「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(1ペト2:1~2)。

マタイによる福音書 23:13~26
「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている・・・。」(23:23) 

 主イエスはファリサイ派・律法学者たちのことを「不幸だ」とおっしゃいます。これは、死を悼む嘆きの叫びです。山上の説教では「幸いだ」という宣言で始まりましたが、この神殿説教では反対の教え方をなさいます。聖書が伝える「幸い・不幸」とは、「神と共にいる・離れている」、ということです。それが祝福と死の岐路なのです。
 この時代のファリサイ派は、律法の細部にこだわった議論に終始してしまい、律法全体がイスラエルに求めている使信を見失っていました。木を見て森を見ず、という本末転倒に陥っていたのです。どれだけ聖書の知識があっても、聖書が伝える「神はあなたを愛していらっしゃる」という言葉が聞こえないのであれば無意味です。イスラエルはいつでも正義・慈悲・誠実を伴った信仰を求められて来ました(ミカ6:8)。
 主は以前弟子達に「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」とおっしゃいました。「人に見せるための信仰」は教会の中に入り、膨らんでいく誘惑の種です。正義・慈悲・誠実をないがしろにしないための祈りの戦いこそ、私達の信仰生活です。

マタイによる福音書 23:1~12
「彼らが言うことは、全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23:3) 

 ガリラヤの山上でなさったように、主イエスはエルサレム神殿の境内で、「義(契約における誠実さ)」について語られます。律法を研究して「義」に関する知識をもっているはずのファリサイ派の人達が、「義」を行っていないことを批判されます。 
 もともと律法は、荒野のイスラエルに「もうエジプトでの奴隷生活に戻らなくてもいい。この言葉に従い、神を愛し、隣人を愛して聖なる民として生きなさい」と与えられた神の民としての生き方の指針です。
 ファリサイ派の人たちは律法に関する議論を「言い伝え(口伝律法)」として残してきました。しかし彼らの議論は、聖句の入った小箱の大きさや衣服の房の長さ、座る場所といった、律法の本質と違うところでのものになってしまっていました。
律法が自分の評価のために用いられると、罪からの解放へと導く自由の言葉から「重荷」へと変わります。キリストの前に、すべての人は「小さい者」(18章)です。この方お一人を真の教師とし、へりくだって向き合ってこそ神の言葉は輝くのです。

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