2018年9月30日 のアーカイブ

マタイによる福音書 22:41~46
「『ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」(22:45) 

 「メシアはダビデの子孫から生まれる」というナタン預言(サム下7:12~13)を皆信じていました。しかし、詩編110編でダビデはメシアのことを「私の子」ではなく「私の主」と呼んでいます。ダビデ本人は、メシアのことを単に自分の子・子孫ではなく、神の座に着いておられる礼拝すべき方として見ているのです。
 マタイ福音書1:1にあるように、主イエスは「ダビデの子」でした。しかしそれは、どのような「ダビデの子」なのでしょうか。人々は、「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃った」と言われた、剣をもって外国を打ち払ったダビデの再来を期待していたようです。
 主イエスが「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と救いを求められ、お与えになったのは癒しでした。この方は「癒しのメシア」だったのです。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10章)とおっしゃいます。この方は剣ではなく、羊飼いの杖を持った、羊飼いとしての「ダビデの子」でした(エゼ34:23~24)。
 「ダビデの子」は、十字架という、とても救いの御業には見えない仕方で、牧者は私達を御許へと取り戻してくださったのです(イザ53:1)。

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