2018年9月 のアーカイブ

マタイによる福音書 22:41~46
「『ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」(22:45) 

 「メシアはダビデの子孫から生まれる」というナタン預言(サム下7:12~13)を皆信じていました。しかし、詩編110編でダビデはメシアのことを「私の子」ではなく「私の主」と呼んでいます。ダビデ本人は、メシアのことを単に自分の子・子孫ではなく、神の座に着いておられる礼拝すべき方として見ているのです。
 マタイ福音書1:1にあるように、主イエスは「ダビデの子」でした。しかしそれは、どのような「ダビデの子」なのでしょうか。人々は、「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃った」と言われた、剣をもって外国を打ち払ったダビデの再来を期待していたようです。
 主イエスが「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と救いを求められ、お与えになったのは癒しでした。この方は「癒しのメシア」だったのです。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10章)とおっしゃいます。この方は剣ではなく、羊飼いの杖を持った、羊飼いとしての「ダビデの子」でした(エゼ34:23~24)。
 「ダビデの子」は、十字架という、とても救いの御業には見えない仕方で、牧者は私達を御許へと取り戻してくださったのです(イザ53:1)。

マタイによる福音書 22:34~40

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(22:36) 

 「どの掟が」は、細かく訳せば「どのような掟が」という言葉です。そもそも聖書は私達にどのようなことを求めているのか、一言でまとめてください、という難しい質問です。
 キリストは、出エジプトをしたイスラエルが約束の地で生きる為、また聖なる民となるために与えられた神の掟を引用され、「神を愛することと隣人を愛することだ」(申6:4、レビ19:18)とおっしゃいました。十戒の要約でもある言葉です。
 では、キリストがおっしゃる「愛」とはどのようなものなのでしょうか。主は「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」とおっしゃいました(ヨハ15:12)。律法が私達に求めるのは「キリストの愛」に倣うことです。それこそ神を愛し、隣人を愛することなのです。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15:13)との言葉通り、主はご自分を十字架に上げた全ての人の罪を担われました。「自分の十字架を背負いなさい」という主の言葉は、「キリストの愛に倣え」ということではないでしょうか。

マタイによる福音書 22:23~34
「『復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』(22:19~30) 

 復活も天使も霊も信じていなかったサドカイ派にとって、自分たちの目に見える世界が全てでした(使徒言行録23:8)。「復活などというものがあったら、こんな困ったことが起きてしまいますよ」、と主イエスに議論を持ってきます。
 復活の命を、この地上の生活の延長として捉えていた彼らに、主イエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃいます。
聖書は私達を超えた方を証ししています。「聖書・神の力を知る」とは、そのことをわきまえることです。「天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっています」「自然の体があるのですから、霊の体もあるのです」(1コリ15章)。世の終わりには、私達が見たこともないことが起こるのです。
 更に、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とおっしゃいました。既に地上の命をなくした者は、天の神の御腕の中で生きているのです。全ての人が復活の命に与る日に向かって私達は生きています。

マタイによる福音書 22:15~22
「偽善者たち、なぜ私を試そうとするのか。」(22:18) 

 ユダヤ地方の領主であったヘロデ・アルケラオはその悪政ゆえ紀元6年にローマに追放されました。ユダヤ地方はローマの直轄の支配に置かれます。その年からユダヤ地方に住む人達には身分や性別に関係なく、全ての成人に一律同額のローマへの税(人頭税)が課せられました。それはユダヤ地方の人たちにとって屈辱的なものでした。
 ファリサイ派がヘロデ家を支持する「ヘロデ派」を連れて、人頭税を払わなくてもいいガリラヤ人の主イエスに皇帝への税金が神の御心に適っているかどうかを聞きにきました。政治的に複雑な問題を含んだ、罠です。
 主は「偽善者」と呼ばれ、「なぜ私を試そうとするのか」とおっしゃいました。「試す」という言葉は、荒野の誘惑の場面で悪魔につかわれている言葉です。ファリサイ派・ヘロデ派の人たちがキリストにしたことは、悪魔の業でした。キリストをキリストとして見ることをしないと、自分たちが神にどう見られているかを見失うのです。
神に対してサタンとなることほど恐ろしいことはありません(Ⅱコリ11:14~15)。

マタイによる福音書 22:1~14
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(22:12)

 主イエスが神殿で語られた三つ目のたとえ話です。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった」と王が嘆きます。招きに相応しく応じた人の少なさを嘆く、神の御心が語られているたとえです。
 主イエスは弟子達に「自分の十字架を担って私に従わない者は、私に相応しくない」とおっしゃいました。キリストの弟子としての「ふさわしさ」とはなんでしょうか。
 「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなた方は自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」(1コリ13:5)。
 たとえの中で、王は礼服を着ずに婚宴の席に来た人を非難します。「私達はいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れる為に」(2コリ4:10)。キリストにふさわしい信仰の礼服とは、イエス・キリストの命ではないでしょうか。
 私達の信仰生活は、真っすぐにメシアの宴へと続いています(ヨハネ黙示録19:5~9)。ふさわしく、歩みましょう。

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