2018年8月 のアーカイブ

マタイによる福音書 21:33~46

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私達の目には不思議に見える。」(21:42) 

 ブドウ園の農夫たちが、主人の許から送られて来る僕たちを次々と殺した、というたとえ話です。キリストはこのたとえ話を、預言者が殺され(歴代下24:21)、エレミヤが「強盗の巣」と呼んだ(エレ7:11)、まさにその場所(神殿の境内)で語られました。これは、イスラエルが預言者を拒んできた歴史を表すたとえ話なのです。
 たとえの中で主人は最後に自分の息子を送ります。その息子はブドウ園の外に放り出されて殺されました。エルサレムの町の外に放り出されて殺されるキリストの運命を暗示します。
 旧約聖書に、ダニエルがバビロン王の夢を解き明かす場面があります(ダニ2章)。大きな像に「人の手によらない一つの石」が投げられ、像は砕かれ、その石が山となり全地に広がる、という夢です。神の国が人間の国にとって代わることが示された夢でした。
「人の手によらない石」はゴルゴタの丘に捨てられました。しかし、その石が神の国の礎となりました。私達の目に不思議に見える神の救いの計画は、今も進んでいます。

マタイによる福音書 21:28~32

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(21:31) 

 たとえの中で、兄は「考え直し」ました。「悔い改めた」のです。悔い改めて神の御心を行う、立ち返りのイスラエルの姿です。弟は「お父さん、承知しました」と言いました。「主よ、私が」という言葉です。しかし、返事だけでした。
 神は、イザヤの口を通してイスラエルのことを、「実をつけないブドウ畑」と嘆かれました。「私がブドウ畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか」と言われます(イザ5章)。
 自分たちこそ神の言葉を知っていると思っていた祭司長・民の長老たちは皮肉にも、人となって来られた神に向かって「何の権威でこのようなことをしているのか」と言いました。ヨハネが示した義の道を信じた徴税人・娼婦たちが「兄」であり、彼らは「弟」なのです。
 ヨハネが示した「義の道」とは、大牧者イエス・キリストへと通じる道のことです(1ペト2:24以下)。「先に入る」は、「先導する」という言葉です。「主よ、憐れんでください」とキリストに立ち返る罪人の姿が、世の人々を神の国へと先導することになるのです。

マタイによる福音書 21:23~27

「祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『なんの権威でこのような事をしているのか』」。(21:23) 

 「預言者」とか「ダビデの子」とか呼ばれているナザレのイエスに、エルサレムの指導者たちは、その権威の源を尋ねました。
 主イエスは逆に、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか」と問われます。ご自分の権威は洗礼者ヨハネに与えられていたのと同じものであり、その権威に対して彼らがどう向き合うのか、という問いかけです。
 群衆の反応を恐れた指導者たちは「わからない」と答えました。人の目を恐れた彼らの主イエスへのあいまいな態度・不信仰が、主を十字架へと上げていくことになります。
 「私は天と地の一切の権能を授かっている」と復活の主は弟子達におっしゃいました(28:18)。教会を迫害したパウロも、主を見捨てて逃げたペトロも、この方に天からの権威を見、主の復活を証しすることに命を捧げるようになりました。
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5:29)。私達は自分が従う「権威」を問われつつ、同時に、それを世に問いかける役割を担っています。

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