2018年7月 のアーカイブ

マタイによる福音書 21:18~22

「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(21:22) 

 預言書には、神は不信仰のイスラエルを実をつけないイチジクと呼んで叱られている言葉がよくあります(ミカ7:1、エレ8:13など)。
 葉っぱだけが茂り実をつけていない、見かけだけ立派なイチジクを主イエスは枯らされました。それは祈り無き「祈りの家」のエルサレム神殿の行く末を示す象徴預言でした。
 主は「来月になれば実がなるだろうから、それまで待とう」とはおっしゃいませんでした。「悔い改めに相応しい実を結べ」「斧は既に木の根元に置かれている」という、神への立ち返りを求めるヨハネの切迫した言葉を思い出します。
 枯れたいちじくを見て驚いた弟子達に、主は「信じて祈るならば何でも得られる」とお教えになります。主の復活後の弟子達を支えるものが何であるかをここで示されたのです。
 後にペトロは、神殿の境内で生まれながら足の不自由な人を癒す際、こう言いました。「私には金や銀はないが、持っている者を上げよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章)。 世の終わりが迫る中、キリストの御心だけが実現していきます。

マタイによる福音書 21:1~11

「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。」(21:10) 

 ガリラヤからの巡礼者たちは主イエスの前後で「ダビデの子ホサナ」と叫び、「これはガリラヤのナザレから出た預言者だ」とエルサレムの人々に伝えました。エルサレムは揺れます。ナザレのイエスはエルサレムにとって政治的にも宗教的にも危険な火種となるのではないか。
 聖書は、主のエルサレム入城をゼカリヤ預言の実現であることを証しします。「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」(ゼカ14:14)、「見よ、あなたの王が来る・・・高ぶることなく、ロバに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って」(ゼカ9:9)。
 主はヨルダン川を渡り、オリーブ山を通り、エルサレムへと入られました。これは、ダビデが息子のアブサロムに追われ、その後アブサロムとの戦いに勝ってエルサレムへと帰還した道筋です。息子の死を悼みつつ、自分に赦しを乞う者を一人一人許しつつダビデはエルサレムに入場しました。ここで我々が見るのは、死の痛みを担い、赦しをもたらすために慎ましく入城される、柔和なダビデとしてのキリストのお姿です。

マタイによる福音書 20:29~34

「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」(20:34) 

 二人の盲人がエリコの町を出たところの道端にいました。エルサレムにむかう人たちが必ず通る場所です。2人はここでナザレのイエスの足音を聞き分けようと、じっと待っていました。
 彼らは「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんでください」と叫びました。群衆に黙るよう叱られても、求め続けました。2人の祈りの叫びが主イエスの歩みを止め、主の御許へと招かれました。
 「何をしてほしいのか」との問いに、「主よ、目を開けていただきたいのです」と主の憐れみを求めます。この方に神の憐れみを求める信仰をお認めになったキリストは、2人の目を開かれます。
 「その日には・・・盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」(イザ29:18~19)。
 二人は一週間後、この方の十字架を自分の目で見ることになります。主イエスはただ彼らと出会い、癒されただけでなく、十字架の証人として召されたのです。キリストとの出会いは点で終わりません。その出会いによって、キリストの御業を見続ける道を生きることになるのです。

マタイによる福音書 20:17~28

「一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(20:27) 

 弟子達に最後の受難予告がされました。主イエスははじめてここで「私達」という主語をつかわれました。これからエルサレムで起こることは、主イエスお一人だけで完結することではなく、弟子達、また信仰者にとって自らのものとしなければならないものなのです。
 その受難予告を聞いても、弟子達はまだ、主の十字架が神の救いの御業であるという「天地創造から隠されていた天の国の秘密」であることを悟っていません。主がおっしゃる「この私が飲もうとしている杯」が何か、「私の右と左」にある座がどこかも、知りません。「あなたがたは自分が何を願っているのか分かっていない」と言われてしまいます。 
 パウロは手紙の中で書いています。「私達が神を賛美する杯は、キリストの血にあずかることではないか。私達が裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」「何をするにしても、全て神の栄光を現わすためにしなさい」(1コリ10:16、31)。
 「十字架の言葉」を聞いた時「主の杯」「主の右と左」を知り、天の国に生きることを始めるのです。

カテゴリーとタグ
2018年7月
« 6月   8月 »
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  
ログイン
アクセス情報