2018年5月 のアーカイブ

使徒言行録 2:1~13
「誰もかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」」(2:6) 

 創世記に、バベルの塔の出来事が記されています。人々は「有名になろう」「全地に散らされることの無いようにしよう」と、天まで届く塔のある町を建設します。人が全地に広がり、神の名が讃美されることをお求めになった神は、その人々の繋がりを、言葉の混乱によって上から壊されました。
 キリストの復活の後、五旬祭の日に「バベルの塔」の時とは反対のことが起こりました。自分の名を求めたために散らされた人間は、今度はキリストの下に一つに集められました。イエス・キリストの復活の証人である教会は地の果てに至るまで広がっていくのです。
キリストの名のもとに一つになって祈っていた群れに聖霊が注がれ、様々な言葉で神の偉大な御業が語られ始めました。あの時の聖霊は、変わらず私達に注がれ、証人として用いられているのです。
 心を尽くし、魂を尽くして神を求めるところで、教会は上から造られていきます。

マタイによる福音書 18:21~35

「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:33) 

 僕は、王から1万タラントンの負債をゆるされながら、100デナリオンの負債のある友を許すことが出来ませんでした。王は怒ります。僕が1万タラントンを返さなかったからではありません。僕が自分の赦しに倣わなかったからです。
 このたとえ話を聞いた弟子達は、「1万タラントンの負債をゆるす王などいるだろうか」と考えたかもしれません。しかし、あの十字架を見捨てた自分を迎えに来てくださった復活の主に再会した時、たとえ話の王の姿を見たのではないでしょうか。
 パウロは、コリント教会の人たちに、許しを請う友を憐れんで受け入れ、キリストに倣うよう伝えています(Ⅱコリ2:5~11)。王の赦しの下に生きる教会のあり方を教えてくれています。
 100デナリオンは1万タラントンの60万分の1です。私達はこのたとえ話に出て来る王の姿に天の国を見つつ、王の憐れみに倣い、キリストの十字架の赦しの御業に加わります。神は憐れみの神です。神の民は、憐れみの民なのです。

マタイによる福音書 18:15~20

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(18 20) 

 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」とパウロは伝道者テモテを励ましています(2テモ4:2)。キリストをまだ知らない人に、ではなく、既にキリストを知っている教会の人々に「宣べ伝えなさい」と言っているのです。「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分の都合の良いことを聞こうと好き勝手に教師たちを寄せ集め・・・」とパウロが言うように、教会の中にも誘惑の力との戦いがあるのです。
 キリストはご自分の群を乱し、自分も群れから去ろうとする人のために「祈れ」とお命じになります。「キリストを信じる小さな者の一人」を失うことは、キリストにとって文字通り、体の一部を失う痛みなのです。
「私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)。地上の者に過ぎない二人、三人であっても、それがキリストの名(支配)の下にある祈りなら、それはキリストの祈りに加わるということであり、天の父の御心となります。

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