2018年4月 のアーカイブ

ローマの信徒への手紙12:9~21

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14) 

 「愛には偽りがあってはなりません」(9節)という言葉がこの文脈の主題です。この前のところでパウロは、「教会はキリストの体である」ということを書いています。キリストの体の一部としての互いへの愛がここで言われているのです。
 キリストの体の一部としての愛とはどのようなものでしょうか。「迫害する者のために祝福を祈りなさい」とパウロは命じています。それは私達の内にある「好き嫌い」といった感情を超えた、信仰者に課せられた最も苦しい戦いです。
 キリストは十字架の上で、目の前の人々から「メシアなら自分を救ってみろ」と嘲られました。これは荒野のサタンの誘惑の言葉と同じです。十字架の上まで追いかけて来たサタンの誘惑に対して、主は「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか分からないのです」という赦しの祈りで勝たれました。
 あのキリストのお姿を見上げて「愛」を考えると、聖書が言っている「愛」には凄みがあります。私達の「許す痛み」との戦いが、神のご計画を少しずつ実現していきます。

マタイによる福音書 18:10~14

「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(18:14) 

「主よ・・・私が子羊のように失われ、迷う時、どうかあなたの僕を探してください」(詩編119:176)。聖書が記している歴史はこれです。群れからはぐれてしまい、助けを求める羊(罪人)の声を、羊飼いである神が探し求め続けてこられた歴史です。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ、と主なる神は言われる」(エゼ18:31~32)

神は、御子イエス・キリストの血を流して契約を結び、神の民を再びご自分の牧場へと招かれました。キリストが恐れていらっしゃるのは、取り戻した羊を再び失うことです。それが天の父にとってどれだけ大きな悲しみなのかを弟子達にお教えになっています。

私達を惑わす(迷わせる)声は今でもこの世に満ちています(マタ24:3~24)。神の牧場から迷い出る者が無いよう、まず神の愛に心を向けることが求められています。「私の目にあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛し・・・恐れるな、私はあなたと共にいる」(イザ43:4~5)。

マタイによる福音書 18:6~9

「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである」(18:6) 

 驚くほど厳しい言葉です。「子供のようになりなさい」から、「子供を受け入れなさい」へと主の言葉は変わります。その「小さな者」を躓かせることを、命に関わるほど重大な問題として教えていらっしゃいます。
 「同じ口から讃美と呪いが出て来るのです」(ヤコ3:10)。「私達が真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえはもはや残っていません」(ヘブ10:26)。
 主イエスが13章で語られた「毒麦のたとえ」の毒麦は、世の終わりまで私達の周りいて、私達の信仰を揺さぶります。しかし、それ以上に怖いのは、自分が毒麦になり、良い麦をダメにしてしまうことではないでしょうか。
 「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。・・・キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(ロマ14:13~15)。
 キリストに救われた者同士が互いに受け入れ合う姿は、世を招かれるキリストを証しすることになるのです。。

マタイによる福音書 18:1~5

「その時、弟子達がイエスのところに来て、『一体誰が、天の国で一番偉いのでしょうか』と言った。」(18:1) 

 「どんな人が」ではなく「誰が」一番偉いのか、という質問です。主イエスが二度目の受難予告をなさった「その時」、弟子達は自分たちの中での順列が気になり始めたようです。
 主イエスは一人の子供を彼らの中に立たせ、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とおっしゃいました。「心を入れ替えて」という言葉は「立ち返って・悔い改めて」から来ています。神の元に戻った人が、主がおっしゃる「子供」です。
「力を捨てよ、知れ、私は神」(詩編46:11)。力を捨てる、ということは勇気がいることです。自ら無防備になり、身をゆだねる、ということです。その先で、初めて「私が神である。私はあなたと共にいる」という声を聞くのです。
 「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものを御存じなのだ」と主はおっしゃいます。幼子が親に信頼して委ねるように、「私の願い通りではなく、御心のままに」とゲツセマネの闇の中で祈られました。私達はそのお姿に倣い、「子供」となるのです。

マタイによる福音書 28:1~15
「行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」(28:10) 

 死は人間がどうやっても勝つことの出来ない力です。それは絶望です。全ての人が行き着くのは、墓です。
 しかし、イエス・キリストはご自分の墓を空になさいました。死という絶望に勝利して、復活なさいました。夜明けの光の中、二人の女性たちは復活の光を見たのです。
私達には「もう終わりだ・もう何も信じられない」と思えるその先で、神は信じるべきものをもって待っていてくださいます。トンネルの闇を知っている人は、トンネルを抜けた先にある美しさも知ることになります。その光を創造された方に出会うのです。
 復活の主は「そこでわたしに会うことになる」とおっしゃいました。「ここまで来なさい。私はあなたと共にいる」と招いてくださいます。私達が神に絶望することがあっても、神が私達に絶望されることはありません。
 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。死ぬまで、ではありません。死のはるか向こう、世の終わりまで主は復活の光をもって導いてくださいます。

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