2018年4月 のアーカイブ

マタイによる福音書 18:6~9

「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである」(18:6) 

 驚くほど厳しい言葉です。「子供のようになりなさい」から、「子供を受け入れなさい」へと主の言葉は変わります。その「小さな者」を躓かせることを、命に関わるほど重大な問題として教えていらっしゃいます。
 「同じ口から讃美と呪いが出て来るのです」(ヤコ3:10)。「私達が真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえはもはや残っていません」(ヘブ10:26)。
 主イエスが13章で語られた「毒麦のたとえ」の毒麦は、世の終わりまで私達の周りいて、私達の信仰を揺さぶります。しかし、それ以上に怖いのは、自分が毒麦になり、良い麦をダメにしてしまうことではないでしょうか。
 「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。・・・キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(ロマ14:13~15)。
 キリストに救われた者同士が互いに受け入れ合う姿は、世を招かれるキリストを証しすることになるのです。。

マタイによる福音書 18:1~5

「その時、弟子達がイエスのところに来て、『一体誰が、天の国で一番偉いのでしょうか』と言った。」(18:1) 

 「どんな人が」ではなく「誰が」一番偉いのか、という質問です。主イエスが二度目の受難予告をなさった「その時」、弟子達は自分たちの中での順列が気になり始めたようです。
 主イエスは一人の子供を彼らの中に立たせ、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とおっしゃいました。「心を入れ替えて」という言葉は「立ち返って・悔い改めて」から来ています。神の元に戻った人が、主がおっしゃる「子供」です。
「力を捨てよ、知れ、私は神」(詩編46:11)。力を捨てる、ということは勇気がいることです。自ら無防備になり、身をゆだねる、ということです。その先で、初めて「私が神である。私はあなたと共にいる」という声を聞くのです。
 「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものを御存じなのだ」と主はおっしゃいます。幼子が親に信頼して委ねるように、「私の願い通りではなく、御心のままに」とゲツセマネの闇の中で祈られました。私達はそのお姿に倣い、「子供」となるのです。

マタイによる福音書 28:1~15
「行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」(28:10) 

 死は人間がどうやっても勝つことの出来ない力です。それは絶望です。全ての人が行き着くのは、墓です。
 しかし、イエス・キリストはご自分の墓を空になさいました。死という絶望に勝利して、復活なさいました。夜明けの光の中、二人の女性たちは復活の光を見たのです。
私達には「もう終わりだ・もう何も信じられない」と思えるその先で、神は信じるべきものをもって待っていてくださいます。トンネルの闇を知っている人は、トンネルを抜けた先にある美しさも知ることになります。その光を創造された方に出会うのです。
 復活の主は「そこでわたしに会うことになる」とおっしゃいました。「ここまで来なさい。私はあなたと共にいる」と招いてくださいます。私達が神に絶望することがあっても、神が私達に絶望されることはありません。
 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。死ぬまで、ではありません。死のはるか向こう、世の終わりまで主は復活の光をもって導いてくださいます。

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