礼拝案内 / 説教集 一覧

マタイによる福音書 27:45~56
「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり・・・」(27:50~51) 

 キリストの死の瞬間に起こった出来事を福音書は記しています。聖書の原文では、神殿の垂れ幕は上から「裂かれた」となっています。聖書はこれを、神がご自分の神殿の垂れ幕を、ご自分の独り子の命をもって上から裂かれた御業として証言しています。
 その時、大地が揺れました。神が地の罪を裁かれる時、「地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる」と預言されています(イザ24:19)。
大地が揺れるのを見てまず信仰を告白したのは、主イエスを十字架に打ち付けたローマ兵たちでした。主の十字架は、罪人と神をつなぐ道となりました。キリストの死によって「道」が切り拓かれ、「上から」の招きによって主の下に集う人々がキリスト教会とされ、今の私達があるのです。「イエスは、垂れ幕、つまりご自分の肉を通って、新しい生きた道を私達のために開いてくださいました」(ヘブ10:20)。

マタイによる福音書 27:32~44
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者。神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りてこい。」(27:40) 

 人々は「神の子なら自分を救ってみろ」と言います。「この子は自分の民を罪から救う」(1:21)とヨセフが天使から告げられた通り、主は「ご自分を十字架から」ではなく「ご自分の民を罪から」救うメシアでした。ご自分を救えないのではなく、ご自分を十字架に上げた人たちのために、十字架の上に留まってくださっているのです。メシアにとって十字架から降りる、ということは、罪人を見捨てる、ということでした。
 「神の子なら・・・」という言い方は、サタンの誘惑の口調です(4章)。教会がキリストの体である限り、「教会なら、自分で自分を救ってごらんなさい、信仰という十字架から降りてごらんなさい」という誘惑が追いかけてきます。「楽な道」「安易な道」「うまい話」が教会の周りにはたくさんあります。
 しかし聖書は、嵐の小舟の中で「主よ、助けてください」と祈る信仰を伝えています。私達は船が大きいから乗り込んだのではありません。キリストが乗っていらっしゃるからこの小舟に身を丸ごと乗せたのです。「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」(黙示録2:9)。

マタイによる福音書 27:32~44
「兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」(27:32) 

 偶然そこを通りかかったキレネ出身のシモンという人が主の十字架の木を担がされました。シモンは自分の不運を呪ったでしょう。しかし、この事がシモンの人生を、自分が担った十字架の意味を証しするものへと変えました。
 シモンが巡礼に来ていたエルサレムで主の十字架を担ったことは単なる偶然ではありません。神はこのようにしてシモンを召されたのです。信仰者は、自分の手で信仰を勝ち取っていくのではありません。まさか、という所へと導かれ、主の不思議を見せられ、信じざるを得ないところへと召され、自分が証しの器として用いられていくのです。
 イザヤは「私達が見たことを誰が信じ得ようか」と預言しました。血を流して苦しまれる主イエスが、実は神御自身であったこと、主に罪を担わせた私達が、主の痛みによって罪の涙を拭われること。主を見捨てた私達が今許されて教会へと招かれ、礼拝の恵みに与っていること。全て、信じられないほどの恵みです。

マタイによる福音書 27:27~31
「総督の兵士たちは・・・イエスの着ている物をはぎ取り・・・『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。」(27:27~28) 

 兵士たちが主イエスに対してしたことは、戴冠式でした。楽しんで主を侮辱したのです。
 この兵士たちにこの後何が起こるか、ということを見ると不思議です。「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱した彼らが、主イエスの十字架の死を見て、「本当にこの人は神の子だった」と信仰を告白するのです。
 最も信仰者として相応しくない人達でしょう。しかし、「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主がおっしゃったように、一番キリストの十字架に近いところにいる罪人へと、神の赦しと招きは向かったのです。
 主イエスは、唾を吐かれながら、ご自分が十字架で背負う彼らの罪の重さを噛みしめていらっしゃったでしょう。「自分はキリストの十字架とは関係ない」と言う人ほど、十字架の赦しを必要としているのです。

マタイによる福音書 27:15~26
「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』」。(27:26) 

 ピラトは「この人の血について、私には責任がない」と言いました。無実の人イエスを叫ぶ群衆に引き渡したピラトには、「自分はこのようにして暴動を防いだ」という言い分があったかもしれません。
しかし、このことは神の目にどう映ったでしょうか。既に、彼の妻の夢を通して、「この人は正しい」と伝えられているのです。
ピラトの声に答えて、民衆は「その血の責任は、我々と子孫にある」と言いました。あの時、あの場所にいた人達と、その子孫だけに主の血の責任がある、ということでしょうか。
聖書の原文では、「全ての民族が」答えた、という書き方をしています。「あなたもあの群衆の中にいて、そう叫んだのだ」ということを聖書は暗に私達に突き付けるのです。この世の誰も、主の血の責任から逃れることはできません。
 私達は、聖書から強く問われます、「あなたが恐れるのは、人の目か、神の目か」。復活のキリストに許された信仰者は、悪魔の誘惑以上に畏れるべきものを知って歩むのです。

マタイによる福音書 27:15~26
「『どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』」。(27:17) 

 この朝ピラトの官邸に集まって来たのは、神殿の境内で主イエスの教えや御業に触れた巡礼者たちではなく、エルサレムの地元の人たちでした。ピラトは「メシアといわれているイエス」という呼び方で、無実である主イエスの方を選ばせようと何気なく誘っています。
ピラトの妻からの伝言が届き、ピラトがそれを聞いている間に祭司長たちや長老たちは、「ナザレのイエスを死刑に」と民を説得しました。民衆は一瞬にして「イエスを十字架に」と叫ぶ暴徒と変わりました。
 何が無実の主イエスを十字架へと上げたのか、誰にも説明はできません。「罪が人々に働き、そうさせた」としか言いようのないことです。
 皮肉にも民衆は「二人のイエスのどちらかを選べ」と問われます。私達も「主イエスか、ほかの何か」という選択の岐路に立たされます。「メシアだと言われているイエス」という曖昧な捉え方が、民衆の道を誤らせました。この方の血によって救われた者は、この方を「キリストといわれているイエス」ではなく、「イエス・キリスト」と呼ぶのです。

マタイによる福音書27:1~14
「『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。』」(27:4) 

 「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔した」とあります。ユダはまさか主イエスに有罪判決が下るとは思っていなかったようです。ここに来てユダは後悔しました。
 この朝、ペトロとユダの2人の弟子達が、主から離れたことが証しされています。ペトロは後に主に立ち返り、ユダはその場で自らの命を絶ちました。2人のその後の明暗を分けたのは何だったのでしょうか。
 2人を分けたのは、キリストに立ち返ったかどうか、ということでした。ペトロは「ガリラヤで会おう」という主の言葉を信じました。そこにしか自分が再び生きるための道がなかったのでしょう。ユダは神殿に銀貨を放り込んで自分を慰める以上の事が出来ませんでした。「見よ、私はお前たちの前に命の道と死の道を置く」(エレ21:8)。これは私達にとっての岐路でもあります。
 遂に主はピラトの前に立たされました。「屠り場に引かれる沈黙の羊」(イザ53章)として、最後まで沈黙を貫かれました。主はこの時、「私の願い通りではなく、御心のままに」という祈りをもって、「今なら引き返せる」というサタンの言葉と戦われていたのではないでしょうか。

マタイによる福音書 27:1~10
「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そしてイエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。」(27:1) 

 「天が地を高く超えているように、私の道はあなたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを高く超えている」(イザ55:8)とあるように、主の十字架は人々の思いを越えて実現して行きました。
 ユダも、祭司長たちも、ピラトも、ここに出て来る人間たちのそれぞれの計画は実現していません。ただ愚かな罪人たちの思いを越えて神の救いのご計画のみが実現していきます。これこそ、聖書が私達に突きつけていることではないでしょうか。
 創世記のヨセフ物語では、ヨセフが銀20枚で兄たちに奴隷に売られてしまいます。しかしヨセフは最後にはエジプトの宰相になりイスラエルの家を救うことになります。兄たちと再会を果たしたヨセフは「命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創45:5)と言いました。神のご計画ははかり知ることが出来ません。
 主を十字架に上げた私達に「私は、あなたを許すために殺されたのだ」という声が聞かされること。これ以上の不思議はありません。

マタイによる福音書 26:69~75
「ペトロは・・・イエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(26:75) 

 ペトロが「ナザレのイエスなど知らない」と言いました。それはイエス・キリストが、世の全ての人から見捨てられた瞬間でした。
 主を知らないと言い、危機を脱したペトロの耳に、鶏の鳴き声が聞こえました。彼は主の言葉を思い出し、泣き崩れます。
 ペトロはもう終わりでしょうか。そうではありません。主は、三度ご自分を否むことになるペトロに、「ガリラヤで会おう」と仰ったのです。本当の意味でのペトロの弟子としての歩みはここからなのです。
 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることの無い救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリ7:10)とパウロは書いています。ペトロの涙は、悔い改めに通じる、神の御心に適った悲しみでした。
 「無学で普通の人であったペトロ(言行録4:13)」は、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜ぶ」(言行録5:41)者とされました。どん底にまで堕ちた所で、復活の主が赦しの御腕をもって受け止めてくださった、だからペトロは明るみで「私はあの方を知っている」といるようになったのです。

マタイによる福音書 26:57~68
「私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」(26:64) 

 実質は、これは裁判ではありませんでした。もう判決は決まっていました。イエスは死刑です。問題はそれをどう正当化させるか、ということでした。
 偽証人が現れますが、主イエスを決定的に追い込むことはできませんでした。その間主はただ、黙り続けていらっしゃいました。業を煮やした大祭司は、「お前は神の子、メシアなのか」と直接尋問します。
 主イエスは沈黙を破り、ご自分こそ全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくる神の子・メシアであることを宣言されました。神を自称し、神を冒涜したとして、主イエスは有罪とされ、唾をはかれ、殴られました。
 この晩、主イエスが口を開かれたのはこの一言だけでした。あとは、抵抗せず黙って殴られ続けました。「苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザ53:7)。
 神がイザヤを通して到来を約束されていた苦難の僕は、実は神御自身でした。主イエスは右の頬を殴られながら、左の頬を差し出し、ご自分を殴る相手のために赦しを祈り続ける戦いを続けられたのです。

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