礼拝案内 / 説教集 一覧

マタイによる福音書 25:31~46

「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、私にしてくれたことなのである。」(25:40) 

 オリーブ山の教えの締めくくりの言葉です。人の子が栄光の座に着き、世を裁かれる際の情景が描き出されています。
世の終わりに集められた「全ての国の民」は、祝福と呪いの岐路で、キリストから「私の兄弟である最も小さい者の一人」に対してどうであったか、と問われるのです。
祝福へと分けられた人達は「天地創造の時から用意されている国」の支配を任されることになることが言われています。アダム(人)とエバ(命)のために創造された楽園に、全ての被造物を取り戻そうと、神は今も働かれていらっしゃいます。
「私達は皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら・・・主と同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリ3:18)
キリストは教会の一人ひとりのことを「私だ」とおっしゃっています。教会は聖霊によってイエス・キリストの似姿として世に生き、王の右側(救いの祝福)に通じる道を示していくのです。

マタイによる福音書 25:14~30
「『忠実な善い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(25:21) 

 天の国のたとえ話です。旅に出る主人からタラントンという単位(6千日分の賃金)の財産を預けられた僕の姿を通して、キリストの再臨を待つ私達の現実が語られています。
 主人は帰って来て、タラントンを増やした僕に、「お前は少しのものに忠実であったから・・・」と言います。タラントンが「少しのもの」と言われています。それに勝る宝が「忠実な善い僕」に与えられます。それは、「更に多くの主人の財産の管理を任される」、ということでした。
 教会はキリストに忠実であればあるほど、ますますキリストの僕とされ、恵みの支配に深く入れられる幸いを得ます。それこそ、我々にとって罪からの「解放」です。
 教会は天の国の鍵をキリストから授かっています(16:19)。新品同様きれいなままで保管されることをお望みではありません。タラントンという単位にたとえられるに相応しい重みをもった主の御業を託されているのです。

マタイによる福音書 25:1~13
「愚かな乙女たちが買いに行っている間に花婿が到着して、用意のできている5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。」(25:10) 

 「神に従う人の光は喜ばしく輝き、神に逆らう者の灯は消される」(箴言13:9)。この天の国のたとえ話に出て来る、光を失った「愚かな花嫁たち」は神に逆らう者・反キリストの姿です。
 主イエスは「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました(7:7)。同時に「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」ともおっしゃいます(7:21)。
 このたとえ話から、主の「門をたたきなさい」という教えは、「今、たたきなさい」ということであることがわかります。花婿が来てから油を買いに行き、それから門をたたくのでは遅いのです。時を逃してならないことを主は繰り返しおっしゃいます。
 聖書は神とイスラエル、キリストと教会との契約関係を、花婿と花嫁の結婚関係として語っています。私達はキリストの花嫁とされている祝福に生きています。それに加えて、婚宴の席に人々招く介添え人としての喜びも与えられているのです(ヨハネ福音書3:29)。

マタイによる福音書 24:45~51
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。」(12:45) 

「主人と僕」は、キリストと弟子達、神と教会を表しています。
「忠実」は「信仰」の類義語です。パウロは「私達は神の秘められた計画の管理者です」「我々管理者に要求されるのは忠実であることです」と言っています(1コリ4章)。主に忠実であることの先に、主人の全財産を管理させていただく、つまり主の御業を担わせていただく幸い・祝福が待っています。
悪い僕は、主人の喜びではなく、自分が主人になる喜びを求めました。今自分がいるのは、主人の家であり、自分が殴っているのは主人の僕たちであり、そして自分も本当は主人の僕であるということすら忘れてしまいました。イスラエルが繰り返し陥った、一番大切なことを忘れてしまった信仰者の姿です。「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いた、などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい」(申命記8:17)。
私達の今が、主人が戻って来る時に向かっている今であることを忘れないことが、既に勝利なのです。

マタイによる福音書 24:26~44
「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。この事をわきまえていなさい。」(24:42~43) 

 キリストの弟子達の「主」は、「帰ってくる主」であることが大前提とされています。そして「主の帰還がいつなのか自分たちでは分からない」ことをわきまえておきなさい、と言われます。
 主イエスはノアの話をなさいました。不法の日常の中で、神は裁きのご計画を義の人ノアにお告げになりました。ノアは陸の上に船を造ります。しかしノアに倣う者はいませんでした。
「その日」まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。「その時」まで日常があったのです。誰も今自分たちの前の前にある日常が明日なくなるとは考えませんでした。神の救いへの招きに耳を傾ける人がどれほど少ないか、という現実を突きつける物語です。
 ある人は、「信仰とは神の言葉を生活することだ」、と言いました。私達の信仰は、今の生活が全てキリストとの再会への秒読みの中にあることを忘れない、というところにあるのです

マタイによる福音書 24:32~34
「これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(24:33) 

 偽預言者・偽メシアの出現、律法への離反、信仰者たちへの誘惑の試練、エルサレム神殿の崩壊・・・全て、世の終わりの徴です。安易な救いが溢れる中で、惑わされないために忘れてはならないのは「人の子が戸口に近づいている」ことだ、と主はおっしゃいます。
「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私達の神の言葉は永久に立つ」というイザヤの言葉を、主イエスは繰り返されました。「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。
 「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(35節)の「滅びる」は「過ぎ去る」という言葉です。主イエスはゲツセマネで「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られました。しかし、苦しみの杯はこの方から「過ぎ去り」ませんでした。そのことによって私達罪人から裁きが「過ぎ去った」のです。大きな逆説の救いです。
 「民の残りの者が都から全く断たれることはない」(ゼカ14:2)。キリスト者は、世の終わりの徴に惑わされず、「残りの者」として永久に立つ神の言葉を証しするのです。

マタイによる福音書 24:29~31
「その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上の全ての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて・・・」(24:30) 

 天体・宇宙に異変が起こる、という表現は、黙示文学の中でよく用いられます。神が人の想像を超えてもたらされる大転換を指しています。
 この主イエスの言葉の背景にはゼカリヤ預言があります。ゼカリヤは、自分たちを守り、祈りの霊を注ごうとして来てくださった神をエルサレムが殺してしまい、殺した相手が神であることを知って悲しむことになる、と預言します。(ゼカ12:9~10)。
 メシアを自分の手で殺す、という悲しみと無関係でいられる人はいません。しかし、その悲しみの先で栄光に満ちた「人の子」の到来を見ることになる、と主はおっしゃいます。主の復活、主の再臨です。
 苦しみの日々の先にある希望を見据えて、主の弟子達は信仰の忍耐を続けました。教会は今も神の国のために苦しみを受けています(Ⅱテサ1:4~7)。忍耐をもって、主と顔と顔を合わせる日に備えていきましょう。

マタイによる福音書 24:15~28

「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、―読者は悟れ―その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(24:15) 

ダニエル書は、BC167にあったシリアの王アンティオコス・エピファネスによるエルサレム占領が背景となっています。弟子達は「またエピファネスのような者が現れるのか」、と鳥肌が立つ思いをしたでしょう。
主がここでおっしゃっているのは「破壊者」とは誰の事か、ではなく、信仰の危機の際弟子達はどうすればいいのか、ということです。「山に逃げなさい」とおっしゃいます。これはソドムとゴモラの滅びの際、み使いがロトに告げた言葉です。
バビロンにエルサレムを滅ぼされたあと、捕囚とされた人達は、自分たちにまで語り継がれて来た信仰の記憶を文字に書き残していきました。それが旧約聖書です。ローマにエルサレムを滅ぼされた後、離散の民となった信仰者たちは、迫害の中、イエス・キリストの記憶を書き残していきました。それが福音書です。「山に逃れた」人たちは、逃れた先で信仰の戦いへと召されたのです。
主の山に備えあり。神の裁きが迫る今、キリストこそ私達の逃れの山であることを心に刻みたいと思います。

ゼカリヤ書 9:1~10
「見よ、あなたの王が来る。・・・高ぶることなく、ろばに乗ってくる。」(9:9) 

バビロン捕囚から戻って来たイスラエルの民は、「自分たちに約束の地はあるのか」という信仰の問を持っていました。ゼカリヤは「ある」と言います。
ゼカリヤは、娘を助けに来る父のように神がエルサレムに来られることを告げます。「王」と呼ぶにはあまりに低いお姿でシオンに来られ、神がもたらされる王国も、地上の支配とは全く異なることが言われます。武器がなくなり、平和が支配する国が地の果てまで及ぶ、というのです。
神はその王国を打ち建てるために世に来られ、戦われました。それは、「失われた者を探し出す戦い」「罪人を招く戦い」でした。
教会は、この戦いへと召されています。「私達の武器は、肉のものではなく、神に由来しています」(Ⅱコリ10:4)とパウロは言います。神の口から出る全ての言葉が、私達の武器です。
 キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいました。この方のもとにこそ、魂が憩う「約束の地」があるのです。

イザヤ書 60:1~7
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は上り、主の栄光はあなたの上に輝く。」(60:1) 

 バビロン捕囚から戻って来たばかりのイスラエルの人たちを待っていたのは様々な困難でした。ユダの土地はサマリア人の行政区に置かれ、更に、バビロンに連行されなかったユダヤ人残留民がいました。帰還民は捕囚の期間を経て「よそ者」になっていたのです。闇を感じていたイスラエルにイザヤは主の栄光の光の到来を告げ、神の民としての歩みを続けるよう励まします。
 彼らは信仰の忍耐をもってエルサレム再建のために身を捧げていきました。540年が過ぎ、主の栄光の光が与えられました。イスラエルは救い主の誕生を見ます。イザヤが告げたように、異邦の民がこの方を拝みに来ました、ある者は黄金を、ある者は乳香を携えて。
 イスラエルの信仰を受け継ぐということは、その信仰の試練を受け継ぐことでもあります。メシアを見た教会は、迫害の中、カタコンベと呼ばれる墓の中に集まり、祈り、礼拝を続けました。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」というキリストの言葉を信じ、信仰の十字架を担い続けたのです。
 試練を生きる教会の信仰を通して、今も神の国の建設は続いています。

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