礼拝案内 / 説教集 一覧

ゼカリヤ書 9:1~10
「見よ、あなたの王が来る。・・・高ぶることなく、ろばに乗ってくる。」(9:9) 

バビロン捕囚から戻って来たイスラエルの民は、「自分たちに約束の地はあるのか」という信仰の問を持っていました。ゼカリヤは「ある」と言います。
ゼカリヤは、娘を助けに来る父のように神がエルサレムに来られることを告げます。「王」と呼ぶにはあまりに低いお姿でシオンに来られ、神がもたらされる王国も、地上の支配とは全く異なることが言われます。武器がなくなり、平和が支配する国が地の果てまで及ぶ、というのです。
神はその王国を打ち建てるために世に来られ、戦われました。それは、「失われた者を探し出す戦い」「罪人を招く戦い」でした。
教会は、この戦いへと召されています。「私達の武器は、肉のものではなく、神に由来しています」(Ⅱコリ10:4)とパウロは言います。神の口から出る全ての言葉が、私達の武器です。
 キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいました。この方のもとにこそ、魂が憩う「約束の地」があるのです。

イザヤ書 60:1~7
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は上り、主の栄光はあなたの上に輝く。」(60:1) 

 バビロン捕囚から戻って来たばかりのイスラエルの人たちを待っていたのは様々な困難でした。ユダの土地はサマリア人の行政区に置かれ、更に、バビロンに連行されなかったユダヤ人残留民がいました。帰還民は捕囚の期間を経て「よそ者」になっていたのです。闇を感じていたイスラエルにイザヤは主の栄光の光の到来を告げ、神の民としての歩みを続けるよう励まします。
 彼らは信仰の忍耐をもってエルサレム再建のために身を捧げていきました。540年が過ぎ、主の栄光の光が与えられました。イスラエルは救い主の誕生を見ます。イザヤが告げたように、異邦の民がこの方を拝みに来ました、ある者は黄金を、ある者は乳香を携えて。
 イスラエルの信仰を受け継ぐということは、その信仰の試練を受け継ぐことでもあります。メシアを見た教会は、迫害の中、カタコンベと呼ばれる墓の中に集まり、祈り、礼拝を続けました。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」というキリストの言葉を信じ、信仰の十字架を担い続けたのです。
 試練を生きる教会の信仰を通して、今も神の国の建設は続いています。

マタイによる福音書 1:18~25

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(1:19) 

 クリスマスは、孤独の中に起こった救いの出来事でした。福音書はキリストの両親に起こったことから描き始めます。
 この時のヨセフとマリアこそ、誰にも頼ることが出来ず、孤独に一人苦しんでいた二人でした。ヨセフは一番苦しい決断を下します。許婚の自分を裏切ったマリアを責めず、むしろ守るために自分の方から離れることを決めるのです。
 主の天使がマリアに起こったことは聖霊の業であるとの言葉を告げたのは、赦しのための孤独を担うことを決めたヨセフでした。主は孤独に苦しむヨセフをご覧になっていたのではないでしょうか。そして赦しの十字架の痛みを自ら背負ったヨセフを、キリストの父として選ばれたのではないでしょうか。
 「クリスマスの喜びなど、自分とは無縁だ」と孤独を感じる人にこそ、インマヌエルの福音は向かいます。群れからはぐれてしまった羊こそ、羊飼いに求められていることを聖書は伝えています。

マラキ書 3:1~5
「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」(3:1) 

 預言者マラキは「あなたがたが待望している主の到来の日は、喜びの日ではなく、裁きの日となる。それに絶えられるか」と問いかけ、悔い改めを促します。
イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、エルサレム神殿の再建も成し遂げました(BC515)。しかし、その後半世紀を経ても、外国による支配は終わらず、民の中に、神殿での礼拝や律法に幻滅する人たちが出てきました。
信仰に幻滅した人たちの中にはレビ人や祭司もいました。彼らは大土地所有者であったサマリアの上流階級の人たちの娘を妻に迎え、異教の信仰と共に富を得ていました。バビロン捕囚以前の不信仰の歩みに戻っていたのです。
紀元前5世紀半ばに、マラキがレビ人や祭司たちに告げた警告は、私達にキリストの再臨の日への備えの呼びかけとして聞こえます。
ヨハネの黙示録には「神と子羊の怒りの大いなる日」が預言され、「誰がそれに耐えられるであろうか」と言われています(黙示録6:17)。「神の秘められた計画を委ねられた管理者」に求められているのは「忠実であること」というパウロの言葉を刻みたいと思います(1コリ4:1~2)。

ハガイ書 2:1~9
「まことに、万軍の主はこう言われる。私は、間もなく天と地を、海と陸地を揺り動かす。」(2:7) 

 BC538年、バビロン捕囚からイスラエルの民がエルサレムへと帰還しました。人々は都の再建に努め、帰還の翌年、神殿の基礎が据えられ、人々は泣きました(エズ3:12)。
 しかし、イスラエルはサマリアの総督やアラブ人、アンモン人など、周辺の人々からの妨害工作を受けながら、廃墟の中生活を続けなければならない苦しみの中にありました。工事は中断されてしまいます。
 ダレイオス王の第二年(BC520)、預言者ハガイを通して「神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板で張った家に住んでいてよいのか」(1:3)との神の言葉が告げられました。
 ハガイは仮庵祭の最終日(2:1)に、「天と地を揺り動かす」という神の言葉を伝えます。神の現臨の預言です(出エジ19:18)。ハガイの言葉に励まされ、イスラエルは神殿を再建しました(BC515)。
 500年以上が過ぎた仮庵祭の最終日、その神殿の境内にナザレからイエスという青年が来て、大声で叫びました。「渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。動かぬ御国の祝福が、この方のもとにあります(ヘブ12:26以下)。

イザヤ書 40:1~5
「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(40:1) 

自分たちの国・故郷・神殿を失い、バビロンで捕囚の中にあったイスラエルの民は思い信仰の問いを抱いて生きていました。「私達の神は、本当に今でも私達の神なのか」。
間もなくバビロンからの解放の時を迎える捕囚の民にイザヤは、天から漏れ聞こえて来た神の声を告げます。神は捕囚民を「私の民」と呼ばれ、ご自分のことを「あなたたちの神」であると断言されます。神とイスラエルの契約関係は生きていることが示されたのです。
天の軍勢は神から命じられます。「荒野に道を備えよ」。それは神がイスラエルを迎えに行かれるための道です。イスラエルは地上の混沌の中に、道を見出します。こちら側から自分たちの手で切り開いていく道ではありません。向こうから神が迎えに来てくださる道です。
興っては滅んで行く巨大な帝国を見ながら、また、自国の滅び・神殿の崩壊・バビロン捕囚を体験しながら、イスラエルは人が神を造れないこと、人は神になれないことを知っていきました。
2000年前、一人のみどりごが生まれました。全ての人を罪から救い出し、天の故郷へと導かれる方がこの世に迎えに来てくださいました。私達にも救いの道が与えられています。

マタイによる福音書 24:3~14

「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24:12~13) 

 主はこれから弟子達を待つ信仰の苦難を預言されます。「艱難」、「迫害」「思い煩い」「富の誘惑」、全て今に至るまで信仰者を取り巻くものです(13章)。キリストを見捨てた弟子達、教会を迫害したパウロは、なぜ主のもとに戻って来たのでしょうか。
 「不法」とは、神の律法がない状態です。「神への愛・隣人への愛」こそ律法である、と主はおっしゃいました(22:40)。弟子達、使徒たちは、主から離れた「不法」の中で、殺伐とした愛のない世界を見たのです。
 「皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」(フィリ2:41)。これこそ私達が生きているこの世という荒野です。使徒たちは愛のない苦しみよりも、愛のために苦しむ幸いを選びました。
最後まで耐え忍ぶことを主はお求めになっています。「雀一羽さえ、あなたがたの父のお許しが無ければ、地に落ちることはない」(10:29)。狼の群れの中で信仰によって神に生かされる羊の姿は、そのまま証しの器となります。信仰の忍耐は、キリストの体という真の神殿を築き上げるのです。

マタイによる福音書 24:3~8

「これらはすべて産みの苦しみである。」(24:8) 

 神殿の崩壊はいつのことか、世の終わりを自分たちが知ることはできるのか、という弟子達の質問に対する主イエスお答えは、「人に惑わされないように気をつけなさい」という一言でした。
 自称メシアの出現、戦争の噂、飢饉や地震といった、「世の終わりを思わせる」ようなことが、弟子達が生きた1世紀には続きました(使徒言行録5:36以下、21:37)。
 イスラエルは歴史の中で滅びを体験する度に、最後まで残る希望は神への信仰であることを見せられて来ました。エルサレム崩壊の中、預言者エレミヤは主の言葉を伝えます。「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」(エレ23:3)。
 時代の混乱の中で、信仰者は信仰を揺さぶられます。しかしパウロは、教会は復活の時へと向かう「産みの苦しみ」の時を生きている、と言います(ロマ8:22~25)。聖霊は、私達の呻きを祈りとして執成し、万事が益となるよう働いてくださっていると言うのです。
 「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ(使徒言行録5:41)。揺れる時代の中にあっても、弟子達は惑わされず、キリストを見つめ、信仰を残したのです。

ヨハネによる福音書 1:1~8
「初めに言葉があった。・・・暗闇は光を理解しなかった。」(1:1~5) 

 ヨハネ福音書は、天地創造の初めよりも前の、全ての根源から語り始めます。そこに立ってイエス・キリストを見ることから、我々はこの方が一体誰なのかを知っていくことが出来るのです。
 この福音書が書かれた時代には、多くの人が、神と人間はそれぞれ別の世界で何の接点もなく生きていると考えていました。聖書は人間が勝手に作り出した壁を砕くところから始めます。神の言が光となって、神の側から壁を越えて世を照らしに来てくださったのです。
 世(暗闇)は光(キリスト)を理解しませんでした。世は神を十字架へと上げるのです。聖書は、二重の意味をもって私達に真理を訴えます。「理解しなかった」には、「消せなかった・勝てなかった」という意味もあります。闇は光を消すことができなかった、死の力も、キリストに勝つことはできなかった、と告げるのです。
 神は洗礼者ヨハネを世に遣わされました。彼の使命は光に照らされることでした。自らが照らされることでキリストを証しするという使命は、今教会に受け継がれています。私達は死に勝る光に照らされています。

ヨハネによる福音書 21:1~14
「・・・それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」(21:11) 

 主イエスの弟子達は、故郷で元の漁師としての生活に戻りました。それぞれの胸の内に敗北感があったでしょう。「あの方との時間はなんだったのか」という重いものを言葉にせず、黙々と網をうっていました。
 夜通し漁をしても何もとれませんでした。夜明けとともに復活の主、イエス・キリストが来られ、言葉をお与えになります。キリストという「夜明けの光」と共に、「闇の中にあった網」に大漁の魚が入りました。
 主を岸辺に見た嬉しさのあまり湖に飛び込んだペトロが陸に上がって見たものは炭火でした。炭火の前で三度「私はイエスの弟子ではない」と言った自分を思い出したでしょう。
 主イエスと弟子達は共に食事をします。ガリラヤ湖畔の朝焼け、キリストと弟子達の、罪も死も乗り越えた清い静寂に満ちた美しい食卓です。
 この後、主はペトロに「ペトロ、私を愛しているか」と問われます。炭火の前で主を否んだペトロは、今度は炭火の前で「私はあなたを愛します」と答え、新しい一歩を踏み出しました。
 弟子達の網は破れませんでした。教会という網の中で生ける者も、死ねる者も、一つの民となり、キリストのもとに導かれていくのです。

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