礼拝案内 / 説教集 一覧

イザヤ書 17章

「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。」(17:7) 

 神は、ダマスコとエフライムへの裁きと、その先にある祝福をお示しになっています。滅びの廃墟の中でアシェラの祭壇の空しさを悟り、人々は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐようになる、と言われています。
聖書に記されているイスラエルの歴史を見ると、神に裁かれるまで、神に立ち返ろうとしない歩みを繰り返しています。どれほど人の心が固く神を忘れやすいか、ということを聖書の歴史は私達に教えています。
歴代誌下30章に、南王国の王ヒゼキヤが、南北のイスラエル王国全体で一緒に過越祭を祝おうと呼びかけたことが記されています。呼びかけに応じたのは、アシェル、マナセ、ゼブルンの三部族の人達だけでした。北王国の中でも一番北(一番アッシリアに近く、滅びに近いところ)に住んでいた人たちです。このことは、神の裁きに対する人間の姿勢というものを物語っているのではないでしょうか。
「アッシリアは倒れる。人間のものではない剣によって。人間のものではない剣が彼らを食い尽くす」(31:8)。その剣は、神に敵対する者にとっては恐怖であり、立ち返る者には希望です。

イザヤ書 16章

「それゆえ、わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・ヘレスのために竪琴のように響く」(16:11) 

 モアブの民に「娘シオンの山」という救いの道が示されましたが、モアブは再び偶像に戻りました(16:7)。モアブは再び神に打たれることが告げられます。
 そのモアブのために、主なる神は泣かれます(9節、11節)。神は人間を裁き、同時に、裁きを受ける人々と共に痛みを覚え、涙を流されるのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか・・・私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(ホセ11:8)
この嘆きが、1世紀後にエレミヤを通して新しい契約の預言として語られ、更に600年後、その契約が、イエス・キリストの十字架となって実現するのです。キリストは、飼い主のいない羊のような群衆をご覧になって、「深く憐れまれ」ました。「はらわたが痛む」、という言葉です。神の痛むほどの愛によって私達は生かされています。
「その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただ一人、高く上げられる。偶像はことごとく滅びる」(イザ2:17~18)。

イザヤ書 15章

「わが心は、モアブのために叫ぶ。」(15:5) 

 13章から、イザヤは幻を見せられ、一つ一つ名指しして国々に裁きを預言していきます。これは24章まで続きます。24章まで読み進めると、エルサレムも含めた全世界への裁きの言葉となります。
 神は裁きの御手をもって人間の驕り高ぶりを削いでいき、世界を「全く裸に」されます(24:3)。裁きによって世の罪がそぎ落とされた先で、主を求める叫びが起こり(24:14)、復活の希望が示されるのです(26:19)。
 モアブの人々は、ケモシュの神に自分の子供を焼いてささげるようなこともしていました(列王下3:26)。それなのに、一夜にしてモアブは滅びます。自分の手に持てるだけの財をもって難民となり、国境を超えることになることが語られます。
 キリストは弟子達におっしゃいました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。神はイザヤの口を通して全世界にこのことを問われます。
 神はモアブのために叫ばれました。惜しんでいらっしゃるのです。裁きの宣告の中に、神の招きの叫びがあることを見落としてはなりません。

マタイによる福音書 17:22~27

「子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らを躓かせないようにしよう。」(17:26~27) 

神殿税は、幕屋の維持のために集めるよう神から命じられた「命の代償金」に元をもっています(出エジプト30:11以下)。
主イエスは神の子であり、神殿の主であり、神殿にまさる方です(12:6)。その方と共にいる主の弟子達、今で言えば、キリスト教会は神殿税を納めなくてもいいはずです(12:49)。私達にとって命の代償は神殿税ではなく、キリストの血です。
 しかし、主は「彼らを躓かせないようにしよう」とおっしゃって納税されました。ここでは誰も「躓かせない」ということを最優先にされています(18:6~7)。
「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:32)。
キリストの下に生きることが私達の自由です。主は「人々を躓かせないようにしよう」と、真理に至る道を狭めることを回避されました。教会も、この時のイエス・キリストご自身のお姿に倣いつつ、柔軟さをもって福音を世に伝えていくのです。

マタイによる福音書 17:14~20

「弟子達はひそかにイエスの所に来て、『なぜ、私達は悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った。」(17:19) 

 弟子達は以前ガリラヤで行ったように、「自分たちが」少年を悪霊から救えると思い、悪霊払いを試みました。結果は失敗でした。群衆の前で恥をかき、戸惑い、主イエスにひそかに質問しに来ました。
主イエスの答えは単純なものでした。「信仰が薄いからだ」。「あなたがたに信仰がないからだ」と訳した方が文脈の意味が通ります。この時弟子達は「からし種一粒」ほど(最小のものを意味する表現)の信仰すら失っていたのです。
信仰の働きの確かさは人間の側にあるのではありません。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」(イザヤ書54:10)。神の契約に信仰・祈りの確かさがあるのです。からし種一粒ほどの信仰を手放すまいともがく私達は、そのもがきの中で、神の奇跡のために用いられていきます。
主イエスは、弟子達に「その子をここに、私の所に連れて来なさい」とおっしゃいました。弟子達は少年の手を引いて主の元に連れて行きました。ここで弟子達が求められた信仰の業は、これだったのです。

マタイによる福音書 17:1~13

「イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない』と弟子達に命じられた。」(17:9) 

 山から下りる際、まず主がなさったのは弟子達への沈黙命令でした。この時の弟子達はまだキリストの十字架も復活も見ていません。自分たちの先生をどう理解すればいいのか、揺れていました。キリストの復活を知らない者がキリストを宣べ伝えると歪んで伝わってしまいます。
 弟子達はエリヤについて質問をしました。今自分たちが山の上で見た終末の預言者エリヤ(マラキ書4:23)をどう捉えればいいのか分からなかったのです。主は「言っておくが、エリヤは既に来たのだ」とおっしゃいます。
以前にも主イエスは洗礼者ヨハネについて、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました(11:14~15)。
 分かったから認めるのではありません。主の復活を認めようとするところから、神のご計画が分かって来るのです。私達は、主の復活に向き合うところから、終末の時を生きる自分に与えられた救いを知っていくことになります。

マタイによる福音書 17:1~13

「『これは私の愛する子。私の心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」(17:5) 

 主イエスはガリラヤでの宣教を終え、これから弟子達と共にエルサレムへと旅をされることになります。その旅は、「大衆の期待」とは異なる、メシアに課された「神の計画」が示された、主の弟子教育の時間でした。
 旅の初めに主が弟子達にお見せになったのは、ご自身の、神としての栄光のお姿でした。六日前に主の受難予告を聞いてからの弟子達の心は揺れていたでしょう。
その弟子達に、雲の中から神の声が響きました。「この者は、私の愛する子。私が望む救いの業のために、この者は十字架で殺されることになる。私はそのことを喜ぶ。あなたがたはこの者の声に従え。」
 後にペトロはこの山の上での体験を通して、「聖書の預言を何一つ自分勝手に解釈してはならない」と教会の信仰者たちに伝えています(2ペト1:16~21)。ペトロは自分の期待を超えた、神の大きな救いのご計画を復活のキリストのお姿を通して見たのです。
私達が生きる日々は、私達の思いを超えた、キリストの栄光の内に置かれています。

マタイによる福音書 16:21~28

「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(16:24) 

 原文は、「私の『後に』ついて来たい者は・・・」という言葉です。ペトロは主イエスを慕うあまり、十字架に向かおうとされる主の「前」に立ちはだかりました。主はそのペトロに「サタン、引き下がれ」と、「後ろ」に戻ることをお命じになります。
 ペトロは荒野で主を誘惑したサタンの役割を担ってしまいました(4章)。サタンは、主イエスと激しく戦いに来たのではありません。主が一番苦しい時に、寄り添い助けに来たのです。ゴルゴタへの出発点に立った主イエスにとって、ペトロの言葉ほど嬉しく、そして大きな誘惑はなかったでしょう。
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」主イエスがおっしゃる「命」は「存在・本当の自分」という意味が含まれています。
 ペトロは後に、保身のために「イエスを知らない」と言いました。自分を守るために主イエスを捨てたペトロは、「自分」を失い、激しく泣きました。主はそのような罪人のために「命」を取り戻すために、世に来てくださったのです。

マタイによる福音書16:21~28
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(16:22) 

 栄光ではなく受難へと向かうメシアは、弟子達の期待を裏切るメシアでした。
 信仰を守り、伝えるために、イスラエル・教会は、なぜあんなに苦しんだのでしょうか。罪の力の抵抗が激しいからです。「神はあなたを愛し、求めていらっしゃる」と伝えるだけで、痛みが伴うのです。
 使徒パウロは書いています。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリ1:18)。
 私達にとって、キリストの十字架こそ人間の思いをはるかに超えたしるし・知恵です。主イエスは後に「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」(20:28)とおっしゃいました。その痛みに与るよう主は弟子達を招かれます。
 同胞が一人また一人と神に背を向けていくイスラエルの中で、信仰に留まる霊的な戦いを続けながら痛みをもって信仰を次の世代に残した人たちがいました。信仰の生命線となるよう、私達も召されているのです。

マタイによる福音書 16:13~20

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(16:18) 

 シモンは「ペトロ(岩)」という名前を主からいただきました。「岩」という言葉から、シモンは何事にも動じない信仰をもった人という印象を受けますが、そうではありませんでした。
 ペトロと呼ばれる前に、彼は「シモン・バルヨナ」と呼ばれています。バルヨナはアラム語で「ヨナの子」という意味です。ヨナ書に出て来るヨナは、神から逃げ、逆らい、不平をもっていた人でした。しかし、そのようなヨナが用いられ、神の救いのご計画が進められたのです。ペトロはヨナのような岩でした。
 教会の本当の基礎は、イエス・キリストというかなめ石です(エフェ2:19~22)。ペトロ自身、後に「主の元に来なさい」と書いています。そのかなめ石の上に使徒や預言者の証しがあり、教会はその上で生かされています。(1ペト2:4~5)。
キリストが命を懸けて据えてくださった石を土台とする限り、教会は人間が絶対に自分の力で勝つことの出来ない死の力に勝るのです。

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