礼拝案内 / 説教集 一覧

ハガイ書 2:1~9
「まことに、万軍の主はこう言われる。私は、間もなく天と地を、海と陸地を揺り動かす。」(2:7) 

 BC538年、バビロン捕囚からイスラエルの民がエルサレムへと帰還しました。人々は都の再建に努め、帰還の翌年、神殿の基礎が据えられ、人々は泣きました(エズ3:12)。
 しかし、イスラエルはサマリアの総督やアラブ人、アンモン人など、周辺の人々からの妨害工作を受けながら、廃墟の中生活を続けなければならない苦しみの中にありました。工事は中断されてしまいます。
 ダレイオス王の第二年(BC520)、預言者ハガイを通して「神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板で張った家に住んでいてよいのか」(1:3)との神の言葉が告げられました。
 ハガイは仮庵祭の最終日(2:1)に、「天と地を揺り動かす」という神の言葉を伝えます。神の現臨の預言です(出エジ19:18)。ハガイの言葉に励まされ、イスラエルは神殿を再建しました(BC515)。
 500年以上が過ぎた仮庵祭の最終日、その神殿の境内にナザレからイエスという青年が来て、大声で叫びました。「渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。動かぬ御国の祝福が、この方のもとにあります(ヘブ12:26以下)。

イザヤ書 40:1~5
「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(40:1) 

自分たちの国・故郷・神殿を失い、バビロンで捕囚の中にあったイスラエルの民は思い信仰の問いを抱いて生きていました。「私達の神は、本当に今でも私達の神なのか」。
間もなくバビロンからの解放の時を迎える捕囚の民にイザヤは、天から漏れ聞こえて来た神の声を告げます。神は捕囚民を「私の民」と呼ばれ、ご自分のことを「あなたたちの神」であると断言されます。神とイスラエルの契約関係は生きていることが示されたのです。
天の軍勢は神から命じられます。「荒野に道を備えよ」。それは神がイスラエルを迎えに行かれるための道です。イスラエルは地上の混沌の中に、道を見出します。こちら側から自分たちの手で切り開いていく道ではありません。向こうから神が迎えに来てくださる道です。
興っては滅んで行く巨大な帝国を見ながら、また、自国の滅び・神殿の崩壊・バビロン捕囚を体験しながら、イスラエルは人が神を造れないこと、人は神になれないことを知っていきました。
2000年前、一人のみどりごが生まれました。全ての人を罪から救い出し、天の故郷へと導かれる方がこの世に迎えに来てくださいました。私達にも救いの道が与えられています。

マタイによる福音書 24:3~14

「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24:12~13) 

 主はこれから弟子達を待つ信仰の苦難を預言されます。「艱難」、「迫害」「思い煩い」「富の誘惑」、全て今に至るまで信仰者を取り巻くものです(13章)。キリストを見捨てた弟子達、教会を迫害したパウロは、なぜ主のもとに戻って来たのでしょうか。
 「不法」とは、神の律法がない状態です。「神への愛・隣人への愛」こそ律法である、と主はおっしゃいました(22:40)。弟子達、使徒たちは、主から離れた「不法」の中で、殺伐とした愛のない世界を見たのです。
 「皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」(フィリ2:41)。これこそ私達が生きているこの世という荒野です。使徒たちは愛のない苦しみよりも、愛のために苦しむ幸いを選びました。
最後まで耐え忍ぶことを主はお求めになっています。「雀一羽さえ、あなたがたの父のお許しが無ければ、地に落ちることはない」(10:29)。狼の群れの中で信仰によって神に生かされる羊の姿は、そのまま証しの器となります。信仰の忍耐は、キリストの体という真の神殿を築き上げるのです。

マタイによる福音書 24:3~8

「これらはすべて産みの苦しみである。」(24:8) 

 神殿の崩壊はいつのことか、世の終わりを自分たちが知ることはできるのか、という弟子達の質問に対する主イエスお答えは、「人に惑わされないように気をつけなさい」という一言でした。
 自称メシアの出現、戦争の噂、飢饉や地震といった、「世の終わりを思わせる」ようなことが、弟子達が生きた1世紀には続きました(使徒言行録5:36以下、21:37)。
 イスラエルは歴史の中で滅びを体験する度に、最後まで残る希望は神への信仰であることを見せられて来ました。エルサレム崩壊の中、預言者エレミヤは主の言葉を伝えます。「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」(エレ23:3)。
 時代の混乱の中で、信仰者は信仰を揺さぶられます。しかしパウロは、教会は復活の時へと向かう「産みの苦しみ」の時を生きている、と言います(ロマ8:22~25)。聖霊は、私達の呻きを祈りとして執成し、万事が益となるよう働いてくださっていると言うのです。
 「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ(使徒言行録5:41)。揺れる時代の中にあっても、弟子達は惑わされず、キリストを見つめ、信仰を残したのです。

ヨハネによる福音書 1:1~8
「初めに言葉があった。・・・暗闇は光を理解しなかった。」(1:1~5) 

 ヨハネ福音書は、天地創造の初めよりも前の、全ての根源から語り始めます。そこに立ってイエス・キリストを見ることから、我々はこの方が一体誰なのかを知っていくことが出来るのです。
 この福音書が書かれた時代には、多くの人が、神と人間はそれぞれ別の世界で何の接点もなく生きていると考えていました。聖書は人間が勝手に作り出した壁を砕くところから始めます。神の言が光となって、神の側から壁を越えて世を照らしに来てくださったのです。
 世(暗闇)は光(キリスト)を理解しませんでした。世は神を十字架へと上げるのです。聖書は、二重の意味をもって私達に真理を訴えます。「理解しなかった」には、「消せなかった・勝てなかった」という意味もあります。闇は光を消すことができなかった、死の力も、キリストに勝つことはできなかった、と告げるのです。
 神は洗礼者ヨハネを世に遣わされました。彼の使命は光に照らされることでした。自らが照らされることでキリストを証しするという使命は、今教会に受け継がれています。私達は死に勝る光に照らされています。

ヨハネによる福音書 21:1~14
「・・・それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」(21:11) 

 主イエスの弟子達は、故郷で元の漁師としての生活に戻りました。それぞれの胸の内に敗北感があったでしょう。「あの方との時間はなんだったのか」という重いものを言葉にせず、黙々と網をうっていました。
 夜通し漁をしても何もとれませんでした。夜明けとともに復活の主、イエス・キリストが来られ、言葉をお与えになります。キリストという「夜明けの光」と共に、「闇の中にあった網」に大漁の魚が入りました。
 主を岸辺に見た嬉しさのあまり湖に飛び込んだペトロが陸に上がって見たものは炭火でした。炭火の前で三度「私はイエスの弟子ではない」と言った自分を思い出したでしょう。
 主イエスと弟子達は共に食事をします。ガリラヤ湖畔の朝焼け、キリストと弟子達の、罪も死も乗り越えた清い静寂に満ちた美しい食卓です。
 この後、主はペトロに「ペトロ、私を愛しているか」と問われます。炭火の前で主を否んだペトロは、今度は炭火の前で「私はあなたを愛します」と答え、新しい一歩を踏み出しました。
 弟子達の網は破れませんでした。教会という網の中で生ける者も、死ねる者も、一つの民となり、キリストのもとに導かれていくのです。

マタイによる福音書 23:31~24:2
「エルサレム・・・私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(23:37) 

 ご自分から離れたエルサレムを取り戻そうとしてきたこれまでの救いの御業に応じようとしなかった民の頑なさを、神がここで嘆いていらっしゃいます。
 「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」と主はおっしゃいます。神の家であるはずの神殿を、「お前たちの家」と呼んでいらっしゃいます。「祈りの家」が「強盗の巣」となり、人間の家となった時、神殿は滅ぶのです。
 「今から後、決して私を見ることが無い」という主イエスの言葉は、警告であり、「キリストが見えるところまで来なさい」という招きでもあります。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない・・・世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る」と弟子達におっしゃっています(ヨハ14:18~19)。ステファノは殉教の時、天を見つめ、そこにキリストのお姿を見ました(使徒8:56)。
 今、私達信仰者の群れが、キリストという土台の上に建てられた神殿です。キリストを土台としている限り、信仰のか細い線は世代を超えてつながっていきます。

マタイによる福音書 23:27~36
「地上に流された正しい人の血は全て、あなたたちにふりかかってくる」(23:35) 

 主イエスは、神殿説教の中でファリサイ派と律法学者を指して7回「不幸だ」とおっしゃいます。そのうちの6回で、「偽善者」という言葉をつかわれます。主が批判されているのは、信仰にひそむ「偽善」でした。
 「白く塗った墓」(27節)とよく似た言い方をしているのは、預言者エゼキエルです。「平和がないのに、『平和』と言って私の民を惑わすのは、壁を築く時に漆喰の上塗りをするようなものだ」(エゼ13:10以下)と、偽預言者のことを「剥がれ落ちる漆喰」と非難しています。
 神から与えられる「聞かなければならない言葉」ではなく、人々が「聞きたがる言葉」を伝える者を、「偽善者」として主は嫌われます。信仰における「偽善」が、預言者を殺してきた、というのです。
 ある人は「この神殿説教は、今、キリスト教会に真っすぐ向けられている」と言います。信仰者はいつでも、御言葉によって自分の信仰の内にあるものがえぐられます。
 「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(1ペト2:1~2)。

マタイによる福音書 23:13~26
「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている・・・。」(23:23) 

 主イエスはファリサイ派・律法学者たちのことを「不幸だ」とおっしゃいます。これは、死を悼む嘆きの叫びです。山上の説教では「幸いだ」という宣言で始まりましたが、この神殿説教では反対の教え方をなさいます。聖書が伝える「幸い・不幸」とは、「神と共にいる・離れている」、ということです。それが祝福と死の岐路なのです。
 この時代のファリサイ派は、律法の細部にこだわった議論に終始してしまい、律法全体がイスラエルに求めている使信を見失っていました。木を見て森を見ず、という本末転倒に陥っていたのです。どれだけ聖書の知識があっても、聖書が伝える「神はあなたを愛していらっしゃる」という言葉が聞こえないのであれば無意味です。イスラエルはいつでも正義・慈悲・誠実を伴った信仰を求められて来ました(ミカ6:8)。
 主は以前弟子達に「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」とおっしゃいました。「人に見せるための信仰」は教会の中に入り、膨らんでいく誘惑の種です。正義・慈悲・誠実をないがしろにしないための祈りの戦いこそ、私達の信仰生活です。

マタイによる福音書 23:1~12
「彼らが言うことは、全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23:3) 

 ガリラヤの山上でなさったように、主イエスはエルサレム神殿の境内で、「義(契約における誠実さ)」について語られます。律法を研究して「義」に関する知識をもっているはずのファリサイ派の人達が、「義」を行っていないことを批判されます。 
 もともと律法は、荒野のイスラエルに「もうエジプトでの奴隷生活に戻らなくてもいい。この言葉に従い、神を愛し、隣人を愛して聖なる民として生きなさい」と与えられた神の民としての生き方の指針です。
 ファリサイ派の人たちは律法に関する議論を「言い伝え(口伝律法)」として残してきました。しかし彼らの議論は、聖句の入った小箱の大きさや衣服の房の長さ、座る場所といった、律法の本質と違うところでのものになってしまっていました。
律法が自分の評価のために用いられると、罪からの解放へと導く自由の言葉から「重荷」へと変わります。キリストの前に、すべての人は「小さい者」(18章)です。この方お一人を真の教師とし、へりくだって向き合ってこそ神の言葉は輝くのです。

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