礼拝案内 / 説教集 一覧

ヨハネによる福音書 1:1~8
「初めに言葉があった。・・・暗闇は光を理解しなかった。」(1:1~5) 

 ヨハネ福音書は、天地創造の初めよりも前の、全ての根源から語り始めます。そこに立ってイエス・キリストを見ることから、我々はこの方が一体誰なのかを知っていくことが出来るのです。
 この福音書が書かれた時代には、多くの人が、神と人間はそれぞれ別の世界で何の接点もなく生きていると考えていました。聖書は人間が勝手に作り出した壁を砕くところから始めます。神の言が光となって、神の側から壁を越えて世を照らしに来てくださったのです。
 世(暗闇)は光(キリスト)を理解しませんでした。世は神を十字架へと上げるのです。聖書は、二重の意味をもって私達に真理を訴えます。「理解しなかった」には、「消せなかった・勝てなかった」という意味もあります。闇は光を消すことができなかった、死の力も、キリストに勝つことはできなかった、と告げるのです。
 神は洗礼者ヨハネを世に遣わされました。彼の使命は光に照らされることでした。自らが照らされることでキリストを証しするという使命は、今教会に受け継がれています。私達は死に勝る光に照らされています。

ヨハネによる福音書 21:1~14
「・・・それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」(21:11) 

 主イエスの弟子達は、故郷で元の漁師としての生活に戻りました。それぞれの胸の内に敗北感があったでしょう。「あの方との時間はなんだったのか」という重いものを言葉にせず、黙々と網をうっていました。
 夜通し漁をしても何もとれませんでした。夜明けとともに復活の主、イエス・キリストが来られ、言葉をお与えになります。キリストという「夜明けの光」と共に、「闇の中にあった網」に大漁の魚が入りました。
 主を岸辺に見た嬉しさのあまり湖に飛び込んだペトロが陸に上がって見たものは炭火でした。炭火の前で三度「私はイエスの弟子ではない」と言った自分を思い出したでしょう。
 主イエスと弟子達は共に食事をします。ガリラヤ湖畔の朝焼け、キリストと弟子達の、罪も死も乗り越えた清い静寂に満ちた美しい食卓です。
 この後、主はペトロに「ペトロ、私を愛しているか」と問われます。炭火の前で主を否んだペトロは、今度は炭火の前で「私はあなたを愛します」と答え、新しい一歩を踏み出しました。
 弟子達の網は破れませんでした。教会という網の中で生ける者も、死ねる者も、一つの民となり、キリストのもとに導かれていくのです。

マタイによる福音書 23:31~24:2
「エルサレム・・・私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(23:37) 

 ご自分から離れたエルサレムを取り戻そうとしてきたこれまでの救いの御業に応じようとしなかった民の頑なさを、神がここで嘆いていらっしゃいます。
 「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」と主はおっしゃいます。神の家であるはずの神殿を、「お前たちの家」と呼んでいらっしゃいます。「祈りの家」が「強盗の巣」となり、人間の家となった時、神殿は滅ぶのです。
 「今から後、決して私を見ることが無い」という主イエスの言葉は、警告であり、「キリストが見えるところまで来なさい」という招きでもあります。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない・・・世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る」と弟子達におっしゃっています(ヨハ14:18~19)。ステファノは殉教の時、天を見つめ、そこにキリストのお姿を見ました(使徒8:56)。
 今、私達信仰者の群れが、キリストという土台の上に建てられた神殿です。キリストを土台としている限り、信仰のか細い線は世代を超えてつながっていきます。

マタイによる福音書 23:27~36
「地上に流された正しい人の血は全て、あなたたちにふりかかってくる」(23:35) 

 主イエスは、神殿説教の中でファリサイ派と律法学者を指して7回「不幸だ」とおっしゃいます。そのうちの6回で、「偽善者」という言葉をつかわれます。主が批判されているのは、信仰にひそむ「偽善」でした。
 「白く塗った墓」(27節)とよく似た言い方をしているのは、預言者エゼキエルです。「平和がないのに、『平和』と言って私の民を惑わすのは、壁を築く時に漆喰の上塗りをするようなものだ」(エゼ13:10以下)と、偽預言者のことを「剥がれ落ちる漆喰」と非難しています。
 神から与えられる「聞かなければならない言葉」ではなく、人々が「聞きたがる言葉」を伝える者を、「偽善者」として主は嫌われます。信仰における「偽善」が、預言者を殺してきた、というのです。
 ある人は「この神殿説教は、今、キリスト教会に真っすぐ向けられている」と言います。信仰者はいつでも、御言葉によって自分の信仰の内にあるものがえぐられます。
 「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(1ペト2:1~2)。

マタイによる福音書 23:13~26
「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている・・・。」(23:23) 

 主イエスはファリサイ派・律法学者たちのことを「不幸だ」とおっしゃいます。これは、死を悼む嘆きの叫びです。山上の説教では「幸いだ」という宣言で始まりましたが、この神殿説教では反対の教え方をなさいます。聖書が伝える「幸い・不幸」とは、「神と共にいる・離れている」、ということです。それが祝福と死の岐路なのです。
 この時代のファリサイ派は、律法の細部にこだわった議論に終始してしまい、律法全体がイスラエルに求めている使信を見失っていました。木を見て森を見ず、という本末転倒に陥っていたのです。どれだけ聖書の知識があっても、聖書が伝える「神はあなたを愛していらっしゃる」という言葉が聞こえないのであれば無意味です。イスラエルはいつでも正義・慈悲・誠実を伴った信仰を求められて来ました(ミカ6:8)。
 主は以前弟子達に「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」とおっしゃいました。「人に見せるための信仰」は教会の中に入り、膨らんでいく誘惑の種です。正義・慈悲・誠実をないがしろにしないための祈りの戦いこそ、私達の信仰生活です。

マタイによる福音書 23:1~12
「彼らが言うことは、全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23:3) 

 ガリラヤの山上でなさったように、主イエスはエルサレム神殿の境内で、「義(契約における誠実さ)」について語られます。律法を研究して「義」に関する知識をもっているはずのファリサイ派の人達が、「義」を行っていないことを批判されます。 
 もともと律法は、荒野のイスラエルに「もうエジプトでの奴隷生活に戻らなくてもいい。この言葉に従い、神を愛し、隣人を愛して聖なる民として生きなさい」と与えられた神の民としての生き方の指針です。
 ファリサイ派の人たちは律法に関する議論を「言い伝え(口伝律法)」として残してきました。しかし彼らの議論は、聖句の入った小箱の大きさや衣服の房の長さ、座る場所といった、律法の本質と違うところでのものになってしまっていました。
律法が自分の評価のために用いられると、罪からの解放へと導く自由の言葉から「重荷」へと変わります。キリストの前に、すべての人は「小さい者」(18章)です。この方お一人を真の教師とし、へりくだって向き合ってこそ神の言葉は輝くのです。

マタイによる福音書 22:41~46
「『ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」(22:45) 

 「メシアはダビデの子孫から生まれる」というナタン預言(サム下7:12~13)を皆信じていました。しかし、詩編110編でダビデはメシアのことを「私の子」ではなく「私の主」と呼んでいます。ダビデ本人は、メシアのことを単に自分の子・子孫ではなく、神の座に着いておられる礼拝すべき方として見ているのです。
 マタイ福音書1:1にあるように、主イエスは「ダビデの子」でした。しかしそれは、どのような「ダビデの子」なのでしょうか。人々は、「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃った」と言われた、剣をもって外国を打ち払ったダビデの再来を期待していたようです。
 主イエスが「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と救いを求められ、お与えになったのは癒しでした。この方は「癒しのメシア」だったのです。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10章)とおっしゃいます。この方は剣ではなく、羊飼いの杖を持った、羊飼いとしての「ダビデの子」でした(エゼ34:23~24)。
 「ダビデの子」は、十字架という、とても救いの御業には見えない仕方で、牧者は私達を御許へと取り戻してくださったのです(イザ53:1)。

マタイによる福音書 22:34~40

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(22:36) 

 「どの掟が」は、細かく訳せば「どのような掟が」という言葉です。そもそも聖書は私達にどのようなことを求めているのか、一言でまとめてください、という難しい質問です。
 キリストは、出エジプトをしたイスラエルが約束の地で生きる為、また聖なる民となるために与えられた神の掟を引用され、「神を愛することと隣人を愛することだ」(申6:4、レビ19:18)とおっしゃいました。十戒の要約でもある言葉です。
 では、キリストがおっしゃる「愛」とはどのようなものなのでしょうか。主は「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」とおっしゃいました(ヨハ15:12)。律法が私達に求めるのは「キリストの愛」に倣うことです。それこそ神を愛し、隣人を愛することなのです。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15:13)との言葉通り、主はご自分を十字架に上げた全ての人の罪を担われました。「自分の十字架を背負いなさい」という主の言葉は、「キリストの愛に倣え」ということではないでしょうか。

マタイによる福音書 22:23~34
「『復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』(22:19~30) 

 復活も天使も霊も信じていなかったサドカイ派にとって、自分たちの目に見える世界が全てでした(使徒言行録23:8)。「復活などというものがあったら、こんな困ったことが起きてしまいますよ」、と主イエスに議論を持ってきます。
 復活の命を、この地上の生活の延長として捉えていた彼らに、主イエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃいます。
聖書は私達を超えた方を証ししています。「聖書・神の力を知る」とは、そのことをわきまえることです。「天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっています」「自然の体があるのですから、霊の体もあるのです」(1コリ15章)。世の終わりには、私達が見たこともないことが起こるのです。
 更に、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とおっしゃいました。既に地上の命をなくした者は、天の神の御腕の中で生きているのです。全ての人が復活の命に与る日に向かって私達は生きています。

マタイによる福音書 22:15~22
「偽善者たち、なぜ私を試そうとするのか。」(22:18) 

 ユダヤ地方の領主であったヘロデ・アルケラオはその悪政ゆえ紀元6年にローマに追放されました。ユダヤ地方はローマの直轄の支配に置かれます。その年からユダヤ地方に住む人達には身分や性別に関係なく、全ての成人に一律同額のローマへの税(人頭税)が課せられました。それはユダヤ地方の人たちにとって屈辱的なものでした。
 ファリサイ派がヘロデ家を支持する「ヘロデ派」を連れて、人頭税を払わなくてもいいガリラヤ人の主イエスに皇帝への税金が神の御心に適っているかどうかを聞きにきました。政治的に複雑な問題を含んだ、罠です。
 主は「偽善者」と呼ばれ、「なぜ私を試そうとするのか」とおっしゃいました。「試す」という言葉は、荒野の誘惑の場面で悪魔につかわれている言葉です。ファリサイ派・ヘロデ派の人たちがキリストにしたことは、悪魔の業でした。キリストをキリストとして見ることをしないと、自分たちが神にどう見られているかを見失うのです。
神に対してサタンとなることほど恐ろしいことはありません(Ⅱコリ11:14~15)。

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