礼拝案内 / 説教集 一覧

ペトロの手紙1 1:1~9
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。」(1:8) 

 この手紙を読んだのは、生前の主イエスを知らない世代の人達でした。 主はトマスに「見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃいました。ペトロも同じことを試練の中にある教会に伝えています。
 預言者エリヤは、アラム軍に囲まれた際、目には見えない「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちている」ことを知っていました(列王記下6:15以下)。教会は、このイスラエルの信仰を受け継いでいます。
 教会には試練が与えられます。創世記に、アブラハムが独り子イサクを生贄として捧げる、という試練を乗り越えたことが記されています(創世記22章)。試練はそこで完結したわけではありません。アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの地に、エルサレム神殿が建てられ、神の独り子が生贄として備えられたのです。聖書は、私達に与えられる試練は、「備えられた主の山」に至るための道であることを教えています。

ペトロの手紙1 1:1~9
「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力に寄り、信仰によって守られています。」(1:5) 

 ペトロは殉教を目前にし、小アジアの地域の諸教会のキリスト者たちは苦しんでいました。
 しかし、この手紙の中には泣き言や恨み言は見当たりません。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(2節)と言います。「ますます」ということは、既に恵みと平和をいただいているという前提の言葉です。その根拠は、自分達が神によって召された民であるということでした。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」というキリストから直接聞いた言葉を、ペトロは生涯忘れず、それを教会にも伝え続けたのです。
 信仰の苦難の先に、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」が用意されている(4節)ことが言われています。キリストの復活を見た弟子達、そしてその証しを信じた信仰者たちは、自分達の地上の命が尽きても朽ちないものを見据えていたのです。
 「信仰によって守られている」という言葉は、今も真っすぐ私達に向けられています。

詩編2編
「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。」(2:2) 

 詩編第二編は、新約聖書でよく引用されている詩編です。この詩の中で言われている「主の油注がれた方」、メシアが来たからです(使徒言行録13:33)。
 主はメシアに「お前は私の子」と呼びかけられます(7節)。確かに主イエスは、福音書の中で何度も神から「あなたは私の子」と言われています。そして今、洗礼を受けてキリストに結ばれている信仰者も皆神の子なのだ、とパウロは言います(ガラ3:26)。
 ヨハネ福音書にニコデモという人が出てきます。主イエスから「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われ、「年を取った者が、どうして生まれることが出来ましょう」と言ったニコデモでした。しかし、主の十字架を見て、神の子として生まれ変わるのです。
 「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人は全て」という言葉でこの詩は結ばれています。キリストは「私のもとに逃げて来なさい」とおっしゃり、御自身をを避けどころとする人たちに「幸いなるかな」と祝福をお与えになります。

ローマの信徒への手紙 10:14~21
「しかし、全ての人が福音に従ったのではありません。」(10:16) 

 紀元前167年に、アンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿から財宝を奪い、ユダヤ人たちに律法の教えを捨てるよう命じました。この時から、ユダヤ人たちの中に、「律法を異邦人から守り、律法の実践によって異邦人から自分たちを区別する」という意識が強くなりました。
30代前半で復活のキリストに召されるまで、パウロも熱心なユダヤ主義者でした。しかし、異邦人伝道へと召されてからは、教会内に残るユダヤ主義との戦いが続きました。キリスト者として教会へと招かれた異邦人に対して、ユダヤ人キリスト者たちからユダヤの習慣に倣うことを強要され、教会内に隔ての壁が出来てしまっていたからです。
律法(聖書)を用いて教会内に線が引かれてしまう、ということは今の教会でも起こり得ることです。15~16節でパウロはイザヤ書の苦難の僕の歌から引用して、この痛みを嘆いています。
聖書は、自分と隣人を線引きするための言葉ではありません。我々を罪から遠ざけ、守ってくれる言葉です。我々人間が勝手に作り出す線引き・壁を壊して全ての人を一つにしてくださる方がお生まれになりました。これが、クリスマスの喜びです。

マタイによる福音書 2:1~13
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(2:10) 

 神は人に旅立ちをお与えになります。東方の占星術の学者たちにメシアの誕生を示す星の光が見せられへと旅へと導かれました。
 学者たちはエルサレムに行きます。そこにはメシアの誕生を喜ばないヘロデ王と、エルサレムの人々がいました。クリスマスはとても静かで平和な喜びの出来事のように考えられていますが、御子の誕生の周辺には、神の救いの御業に必死で抵抗する罪の力が渦巻いていました。自分の支配を奪われまいと非道を尽くすヘロデの姿があります。
 星は、私達に働く罪の力の悲惨さを暴き出しながら、罪からの救い主を照らします。学者たちは、ベツレヘムで生まれたばかりの赤ちゃんの下にたどり着きました。学者たちはそこで自分たちの「この方に出会い、礼拝するためだった」という旅の意味をしりました。
 今私達は、キリストの下へと誰かを導く星の役割が与えられています。生きることに暗闇を感じる人たちのために、小さな光として遣わされています。

詩編68:1~19
「あなたは高い天に上り、人々をとりことし、人々を貢物として取り、背く者も捕られる。彼らはそこに住み着かせられる。」(68:19) 

 詩編68編は、出エジプトを思い返しながら、イスラエルが神によって担われ、導かれていることを讃美する歌です。詩人は、イスラエルが40年間歩かされた苦しい旅を恨んでいるのではありません。荒野で自分たちが「貧しい」(11節)ことを学ばされたことに感謝しているのです。
 聖書で「貧しい」とは、神の前に謙遜である、神の前に何も持っていない、神の前に力を捨てている、ということです。キリストはそのような人たちを「幸いなるかな」(マタ5:3)とおっしゃり、祝福を宣言され、教会を創造されました。
 19節の「彼らはそこに住み着かせられる」という言葉は、エフェソの信徒への手紙4:8で引用され「人々に賜物を分け与えられた」と解釈されています。
 「彼は戦利品としておびただしい人を受ける」(イザ53:11)と預言されていたように、キリストは苦難の僕としての痛みの戦いを通して、世の罪人をご自分のものとしてくださいました。今、貧しい人にキリストから賜物が一人一人与えられ、インマヌエルの歩みが続けられています。

ヘブライ人への手紙1章
「神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』と言われました。」(1:6) 

 この手紙は紀元80~90年頃に書かれたと考えられています。エルサレム神殿を失い、ペトロやパウロ、主イエスを直接知っていた信仰者たちももういない、教会にとっての試練の時代です。
 手紙の著者は1章で、旧約聖書を7つも引用して、「代々の信仰者たちが待ち望んでいたメシアは来たではないか」と言って教会を励まします。「彼を礼拝せよ」の「彼」はイエス・キリストです。
主はサマリア人の女性に「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(ヨハ4:23)とおっしゃいました。女性はメシアを待っていましたが、主は「それは、あなたと話しをしているこの私である」とおっしゃいました。
真の礼拝から最も遠いと思われる貧しい人たちのところにまで、神は足を運び、御自身への礼拝への招きを告げられます。
教会は、キリストのご降誕と、キリストの再臨という二つの「アドベント」の間を生きています。世の終わりに完成される神の招きに向かって礼拝の歩みを積み重ねて生きる新しいイスラエルなのです。

詩編24編
「栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。」(24:8) 

 神の創造の御業、創造主である神を求める巡礼者たちの会話、創造主なる神が到来される喜びの讃歌、という構成の詩編です。
 大海・潮の流れの上に神が創造の御業を行われたことが言われています(1節)。水は古代オリエントでは、混沌・無秩序の象徴でした。神が混沌に勝利され、秩序の調和を創造されたことが讃美されています。
 イエス・キリストは嵐を鎮められたことがあります。弟子達は、「風や湖さえ従うではないか。いったいこの方はどなたなのだろう」と驚きました。この方こそ、神の平和を取り戻すために世の混沌の中へと来てくださった創造主でした。
 「万軍の主」の到来が讃美されています。妻を守る夫のように、子供のために身を挺する親のように、神は契約の民イスラエルのために戦ってこられました。イスラエルの勝利は、神による勝利でした。
 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(黙示録21:3)。私達はキリストに導かれながら救いの完成へと向かっている巡礼者です。

ペトロの手紙1 1:1~9
「イエス・キリストの使徒ペトロから・・・各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」(1:1) 
 
 ペトロは64年に皇帝ネロによるキリスト者迫害の中で殉教したと言われています。この手紙は、ペトロが同じキリストの使徒であったシルワノという人に託した言葉が手紙にしたためられ、小アジア地方の諸教会に送られたもののようです(5:12)。
 当時のキリスト教会は、教会の偉大な指導者であったペトロを失い、信仰の故郷であるエルサレムではローマとユダヤの戦いが起こっていました。70年にはエルサレム神殿が破壊され、失います。
 そこにペトロの遺言としての信仰の励ましの言葉が届けられます。荒野の40年も、バビロンでの70年も、イスラエルにとっては仮住まいの時でした。神に見捨てられた時ではなく、神が共に苦しみ、イスラエルが生まれ変わった時でした。
 ペトロは主イエスを見捨てる直前に「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」という主の言葉を聞きました。ペトロ自身も、命をかけて信仰の励ましを教会に残したのです。

マタイによる福音書 28:16~20
「『私は天と地の一切の権能を授かっている。』」(28:19) 

 神は、無意味に人と出会うということはなさいません。神と出会った人には、その人が考えたこともなかったような新しい道が必ず示されます。ガリラヤに戻った弟子達がそうでした。
 弟子達と再会された復活の主の第一声は「私は天と地の一切の権能を授かっている」でした。墓から蘇られた方がそうおっしゃるのを聞いて、弟子達は「アーメン」と思ったでしょう。だから、彼らは再び世に出て行くことが出来たのです。
 主は「全ての人に、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」とおっしゃいました。洗礼を通して信仰者に聖霊が与えられる様子が使徒言行録に記録されています。「聖霊」は元々「息・風」という意味の言葉です(ヘブライ語で『ルーアハ』)。ルーアハは、「それによって決定づけられるもの」という意味も持っています。
 神が人の鼻に息を吹き入れて人を生きる者とされたように、私達は洗礼を通して神の息をいただき、キリストと共に生きることが決定づけられました。天と地の一切の権能をお持ちの方が、世の終わりまで共にいてくださいます。主の前にひれ伏す礼拝の民に、今も主の大宣教命令の声は与えられています。

カテゴリーとタグ
2020年1月
« 12月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
ログイン
アクセス情報