礼拝案内 / 説教集 一覧

マタイによる福音書 23:1~12
「彼らが言うことは、全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23:3) 

 ガリラヤの山上でなさったように、主イエスはエルサレム神殿の境内で、「義(契約における誠実さ)」について語られます。律法を研究して「義」に関する知識をもっているはずのファリサイ派の人達が、「義」を行っていないことを批判されます。 
 もともと律法は、荒野のイスラエルに「もうエジプトでの奴隷生活に戻らなくてもいい。この言葉に従い、神を愛し、隣人を愛して聖なる民として生きなさい」と与えられた神の民としての生き方の指針です。
 ファリサイ派の人たちは律法に関する議論を「言い伝え(口伝律法)」として残してきました。しかし彼らの議論は、聖句の入った小箱の大きさや衣服の房の長さ、座る場所といった、律法の本質と違うところでのものになってしまっていました。
律法が自分の評価のために用いられると、罪からの解放へと導く自由の言葉から「重荷」へと変わります。キリストの前に、すべての人は「小さい者」(18章)です。この方お一人を真の教師とし、へりくだって向き合ってこそ神の言葉は輝くのです。

マタイによる福音書 22:41~46
「『ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」(22:45) 

 「メシアはダビデの子孫から生まれる」というナタン預言(サム下7:12~13)を皆信じていました。しかし、詩編110編でダビデはメシアのことを「私の子」ではなく「私の主」と呼んでいます。ダビデ本人は、メシアのことを単に自分の子・子孫ではなく、神の座に着いておられる礼拝すべき方として見ているのです。
 マタイ福音書1:1にあるように、主イエスは「ダビデの子」でした。しかしそれは、どのような「ダビデの子」なのでしょうか。人々は、「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃った」と言われた、剣をもって外国を打ち払ったダビデの再来を期待していたようです。
 主イエスが「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と救いを求められ、お与えになったのは癒しでした。この方は「癒しのメシア」だったのです。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10章)とおっしゃいます。この方は剣ではなく、羊飼いの杖を持った、羊飼いとしての「ダビデの子」でした(エゼ34:23~24)。
 「ダビデの子」は、十字架という、とても救いの御業には見えない仕方で、牧者は私達を御許へと取り戻してくださったのです(イザ53:1)。

マタイによる福音書 22:34~40

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(22:36) 

 「どの掟が」は、細かく訳せば「どのような掟が」という言葉です。そもそも聖書は私達にどのようなことを求めているのか、一言でまとめてください、という難しい質問です。
 キリストは、出エジプトをしたイスラエルが約束の地で生きる為、また聖なる民となるために与えられた神の掟を引用され、「神を愛することと隣人を愛することだ」(申6:4、レビ19:18)とおっしゃいました。十戒の要約でもある言葉です。
 では、キリストがおっしゃる「愛」とはどのようなものなのでしょうか。主は「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」とおっしゃいました(ヨハ15:12)。律法が私達に求めるのは「キリストの愛」に倣うことです。それこそ神を愛し、隣人を愛することなのです。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15:13)との言葉通り、主はご自分を十字架に上げた全ての人の罪を担われました。「自分の十字架を背負いなさい」という主の言葉は、「キリストの愛に倣え」ということではないでしょうか。

マタイによる福音書 22:23~34
「『復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』(22:19~30) 

 復活も天使も霊も信じていなかったサドカイ派にとって、自分たちの目に見える世界が全てでした(使徒言行録23:8)。「復活などというものがあったら、こんな困ったことが起きてしまいますよ」、と主イエスに議論を持ってきます。
 復活の命を、この地上の生活の延長として捉えていた彼らに、主イエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃいます。
聖書は私達を超えた方を証ししています。「聖書・神の力を知る」とは、そのことをわきまえることです。「天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっています」「自然の体があるのですから、霊の体もあるのです」(1コリ15章)。世の終わりには、私達が見たこともないことが起こるのです。
 更に、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とおっしゃいました。既に地上の命をなくした者は、天の神の御腕の中で生きているのです。全ての人が復活の命に与る日に向かって私達は生きています。

マタイによる福音書 22:15~22
「偽善者たち、なぜ私を試そうとするのか。」(22:18) 

 ユダヤ地方の領主であったヘロデ・アルケラオはその悪政ゆえ紀元6年にローマに追放されました。ユダヤ地方はローマの直轄の支配に置かれます。その年からユダヤ地方に住む人達には身分や性別に関係なく、全ての成人に一律同額のローマへの税(人頭税)が課せられました。それはユダヤ地方の人たちにとって屈辱的なものでした。
 ファリサイ派がヘロデ家を支持する「ヘロデ派」を連れて、人頭税を払わなくてもいいガリラヤ人の主イエスに皇帝への税金が神の御心に適っているかどうかを聞きにきました。政治的に複雑な問題を含んだ、罠です。
 主は「偽善者」と呼ばれ、「なぜ私を試そうとするのか」とおっしゃいました。「試す」という言葉は、荒野の誘惑の場面で悪魔につかわれている言葉です。ファリサイ派・ヘロデ派の人たちがキリストにしたことは、悪魔の業でした。キリストをキリストとして見ることをしないと、自分たちが神にどう見られているかを見失うのです。
神に対してサタンとなることほど恐ろしいことはありません(Ⅱコリ11:14~15)。

マタイによる福音書 22:1~14
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(22:12)

 主イエスが神殿で語られた三つ目のたとえ話です。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった」と王が嘆きます。招きに相応しく応じた人の少なさを嘆く、神の御心が語られているたとえです。
 主イエスは弟子達に「自分の十字架を担って私に従わない者は、私に相応しくない」とおっしゃいました。キリストの弟子としての「ふさわしさ」とはなんでしょうか。
 「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなた方は自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」(1コリ13:5)。
 たとえの中で、王は礼服を着ずに婚宴の席に来た人を非難します。「私達はいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れる為に」(2コリ4:10)。キリストにふさわしい信仰の礼服とは、イエス・キリストの命ではないでしょうか。
 私達の信仰生活は、真っすぐにメシアの宴へと続いています(ヨハネ黙示録19:5~9)。ふさわしく、歩みましょう。

マタイによる福音書 21:33~46

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私達の目には不思議に見える。」(21:42) 

 ブドウ園の農夫たちが、主人の許から送られて来る僕たちを次々と殺した、というたとえ話です。キリストはこのたとえ話を、預言者が殺され(歴代下24:21)、エレミヤが「強盗の巣」と呼んだ(エレ7:11)、まさにその場所(神殿の境内)で語られました。これは、イスラエルが預言者を拒んできた歴史を表すたとえ話なのです。
 たとえの中で主人は最後に自分の息子を送ります。その息子はブドウ園の外に放り出されて殺されました。エルサレムの町の外に放り出されて殺されるキリストの運命を暗示します。
 旧約聖書に、ダニエルがバビロン王の夢を解き明かす場面があります(ダニ2章)。大きな像に「人の手によらない一つの石」が投げられ、像は砕かれ、その石が山となり全地に広がる、という夢です。神の国が人間の国にとって代わることが示された夢でした。
「人の手によらない石」はゴルゴタの丘に捨てられました。しかし、その石が神の国の礎となりました。私達の目に不思議に見える神の救いの計画は、今も進んでいます。

マタイによる福音書 21:28~32

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(21:31) 

 たとえの中で、兄は「考え直し」ました。「悔い改めた」のです。悔い改めて神の御心を行う、立ち返りのイスラエルの姿です。弟は「お父さん、承知しました」と言いました。「主よ、私が」という言葉です。しかし、返事だけでした。
 神は、イザヤの口を通してイスラエルのことを、「実をつけないブドウ畑」と嘆かれました。「私がブドウ畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか」と言われます(イザ5章)。
 自分たちこそ神の言葉を知っていると思っていた祭司長・民の長老たちは皮肉にも、人となって来られた神に向かって「何の権威でこのようなことをしているのか」と言いました。ヨハネが示した義の道を信じた徴税人・娼婦たちが「兄」であり、彼らは「弟」なのです。
 ヨハネが示した「義の道」とは、大牧者イエス・キリストへと通じる道のことです(1ペト2:24以下)。「先に入る」は、「先導する」という言葉です。「主よ、憐れんでください」とキリストに立ち返る罪人の姿が、世の人々を神の国へと先導することになるのです。

マタイによる福音書 21:23~27

「祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『なんの権威でこのような事をしているのか』」。(21:23) 

 「預言者」とか「ダビデの子」とか呼ばれているナザレのイエスに、エルサレムの指導者たちは、その権威の源を尋ねました。
 主イエスは逆に、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか」と問われます。ご自分の権威は洗礼者ヨハネに与えられていたのと同じものであり、その権威に対して彼らがどう向き合うのか、という問いかけです。
 群衆の反応を恐れた指導者たちは「わからない」と答えました。人の目を恐れた彼らの主イエスへのあいまいな態度・不信仰が、主を十字架へと上げていくことになります。
 「私は天と地の一切の権能を授かっている」と復活の主は弟子達におっしゃいました(28:18)。教会を迫害したパウロも、主を見捨てて逃げたペトロも、この方に天からの権威を見、主の復活を証しすることに命を捧げるようになりました。
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5:29)。私達は自分が従う「権威」を問われつつ、同時に、それを世に問いかける役割を担っています。

マタイによる福音書 21:18~22

「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(21:22) 

 預言書には、神は不信仰のイスラエルを実をつけないイチジクと呼んで叱られている言葉がよくあります(ミカ7:1、エレ8:13など)。
 葉っぱだけが茂り実をつけていない、見かけだけ立派なイチジクを主イエスは枯らされました。それは祈り無き「祈りの家」のエルサレム神殿の行く末を示す象徴預言でした。
 主は「来月になれば実がなるだろうから、それまで待とう」とはおっしゃいませんでした。「悔い改めに相応しい実を結べ」「斧は既に木の根元に置かれている」という、神への立ち返りを求めるヨハネの切迫した言葉を思い出します。
 枯れたいちじくを見て驚いた弟子達に、主は「信じて祈るならば何でも得られる」とお教えになります。主の復活後の弟子達を支えるものが何であるかをここで示されたのです。
 後にペトロは、神殿の境内で生まれながら足の不自由な人を癒す際、こう言いました。「私には金や銀はないが、持っている者を上げよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章)。 世の終わりが迫る中、キリストの御心だけが実現していきます。

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