礼拝案内 / 説教集 一覧

マタイによる福音書 18:6~9

「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである」(18:6) 

 驚くほど厳しい言葉です。「子供のようになりなさい」から、「子供を受け入れなさい」へと主の言葉は変わります。その「小さな者」を躓かせることを、命に関わるほど重大な問題として教えていらっしゃいます。
 「同じ口から讃美と呪いが出て来るのです」(ヤコ3:10)。「私達が真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえはもはや残っていません」(ヘブ10:26)。
 主イエスが13章で語られた「毒麦のたとえ」の毒麦は、世の終わりまで私達の周りいて、私達の信仰を揺さぶります。しかし、それ以上に怖いのは、自分が毒麦になり、良い麦をダメにしてしまうことではないでしょうか。
 「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。・・・キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(ロマ14:13~15)。
 キリストに救われた者同士が互いに受け入れ合う姿は、世を招かれるキリストを証しすることになるのです。。

マタイによる福音書 18:1~5

「その時、弟子達がイエスのところに来て、『一体誰が、天の国で一番偉いのでしょうか』と言った。」(18:1) 

 「どんな人が」ではなく「誰が」一番偉いのか、という質問です。主イエスが二度目の受難予告をなさった「その時」、弟子達は自分たちの中での順列が気になり始めたようです。
 主イエスは一人の子供を彼らの中に立たせ、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とおっしゃいました。「心を入れ替えて」という言葉は「立ち返って・悔い改めて」から来ています。神の元に戻った人が、主がおっしゃる「子供」です。
「力を捨てよ、知れ、私は神」(詩編46:11)。力を捨てる、ということは勇気がいることです。自ら無防備になり、身をゆだねる、ということです。その先で、初めて「私が神である。私はあなたと共にいる」という声を聞くのです。
 「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものを御存じなのだ」と主はおっしゃいます。幼子が親に信頼して委ねるように、「私の願い通りではなく、御心のままに」とゲツセマネの闇の中で祈られました。私達はそのお姿に倣い、「子供」となるのです。

マタイによる福音書 28:1~15
「行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」(28:10) 

 死は人間がどうやっても勝つことの出来ない力です。それは絶望です。全ての人が行き着くのは、墓です。
 しかし、イエス・キリストはご自分の墓を空になさいました。死という絶望に勝利して、復活なさいました。夜明けの光の中、二人の女性たちは復活の光を見たのです。
私達には「もう終わりだ・もう何も信じられない」と思えるその先で、神は信じるべきものをもって待っていてくださいます。トンネルの闇を知っている人は、トンネルを抜けた先にある美しさも知ることになります。その光を創造された方に出会うのです。
 復活の主は「そこでわたしに会うことになる」とおっしゃいました。「ここまで来なさい。私はあなたと共にいる」と招いてくださいます。私達が神に絶望することがあっても、神が私達に絶望されることはありません。
 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。死ぬまで、ではありません。死のはるか向こう、世の終わりまで主は復活の光をもって導いてくださいます。

イザヤ書 19:16~23

「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。」(19:23) 

 エジプトへの託宣の内容が、16節から祝福への招きへと転換します。主なる神は、裁きの先でエジプトをご自分への礼拝へと導き、聖なる国民の一員とされることをお示しになります。
 「その日」には、エジプトには「5つの町」が出来、その町の一つは「太陽の町」と呼ばれる、と言われています。たった五つの町の立ち返りなど無力に思えます。しかしそのわずかな信仰者が、パン種が練粉全体を膨らませるように、世の光としての働きを担うのです。
 イザヤ書にはよく「道」という言葉がつかわれています。「慰めよ、私の民を慰めよ、とあなたたちの神は言われる・・・主のために、荒野に道を備え・・・荒れ地に広い道を通せ」(40:1~3)。何もない荒れ地・地上の混沌の中に、真っすぐに、主の礼拝へとつながる道が敷かれる希望が語られます。
 民族や国といった地上の線引きを超えて、主を礼拝する者がその道を歩き、聖なる国民が創造されていきます(1ペト2:9~11)。キリストが血を流して敷いてくださった道を歩き通すことで、我々は真理の道を証しすることになるのです。

イザヤ書19:1~15
「主の御前に、エジプトの偶像はよろめき、エジプト人の勇気は、全く失われる。」(19:1) 

 エジプトへの託宣です。主なる神はエジプトの生命線であるナイルを干上がらせ、本当の生命線がご自分にあることをお示しになります。神の裁きの御手は、アッシリアやエジプトが「我が民、我が手の業」となるところへと導いて行かれるのです(19:25)。
 アッシリアの脅威の中でこれを預言したイザヤは、恐らく人々に馬鹿にされたでしょう。内容が非現実的なのです。イエス・キリストも、十字架へと向かっているにも関わらず「身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」などとおっしゃいました(ルカ21:28)。
 「私達の聞いたことを、誰が信じ得ようか」(イザ53:1)。神は、人間の思いをはるかに超えた救いをくださいます(イザ55:9)。
 「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1:7)。神は「主を畏れる」ところへと御手を持って導いてくださいます。裁きも、試練も、我々にははかり知ることのできない恵みが隠されています。

イザヤ書 18章

「主はわたしにこう言われた。『わたしは黙して、わたしの住む所から、目を注ごう。』」(18:4) 

 クシュは、エジプトの南、現在のエチオピアの辺りの国です。ユダ王国のはるか南にあった、いわば地の果てのようなクシュにとっても、アッシリアの軍隊の南下は脅威でした。クシュの叫びに主なる神がお応えになります。神は世界の果ての祈りを聞かれ、世界の果てまで御手を伸ばされるのです。
 しかし神がおっしゃったのは「私は黙して、私の住むところから目を注ごう」という言葉でした。黙って見ているだけ、という消極的な態度に思えます。
 ある人は、「神の御業は、見ることではなく、信じることが求められているのだ」と言います。神の御手は静かに、裁かれる者の目にも、救われる者の目にも見えない仕方で伸ばされます。「毒麦のたとえ」は、神は気づいていらっしゃらないのではなく、黙って「時」が来るまで見ていらっしゃる、ということを教えています(マタ13:24以下)。
 キリストは「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」とおっしゃって、我々を信仰の戦いへと召されます。この小さな群れを通して神はご自分の勝利を世に示されるのです。

イザヤ書 17章

「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。」(17:7) 

 神は、ダマスコとエフライムへの裁きと、その先にある祝福をお示しになっています。滅びの廃墟の中でアシェラの祭壇の空しさを悟り、人々は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐようになる、と言われています。
聖書に記されているイスラエルの歴史を見ると、神に裁かれるまで、神に立ち返ろうとしない歩みを繰り返しています。どれほど人の心が固く神を忘れやすいか、ということを聖書の歴史は私達に教えています。
歴代誌下30章に、南王国の王ヒゼキヤが、南北のイスラエル王国全体で一緒に過越祭を祝おうと呼びかけたことが記されています。呼びかけに応じたのは、アシェル、マナセ、ゼブルンの三部族の人達だけでした。北王国の中でも一番北(一番アッシリアに近く、滅びに近いところ)に住んでいた人たちです。このことは、神の裁きに対する人間の姿勢というものを物語っているのではないでしょうか。
「アッシリアは倒れる。人間のものではない剣によって。人間のものではない剣が彼らを食い尽くす」(31:8)。その剣は、神に敵対する者にとっては恐怖であり、立ち返る者には希望です。

イザヤ書 16章

「それゆえ、わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・ヘレスのために竪琴のように響く」(16:11) 

 モアブの民に「娘シオンの山」という救いの道が示されましたが、モアブは再び偶像に戻りました(16:7)。モアブは再び神に打たれることが告げられます。
 そのモアブのために、主なる神は泣かれます(9節、11節)。神は人間を裁き、同時に、裁きを受ける人々と共に痛みを覚え、涙を流されるのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか・・・私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(ホセ11:8)
この嘆きが、1世紀後にエレミヤを通して新しい契約の預言として語られ、更に600年後、その契約が、イエス・キリストの十字架となって実現するのです。キリストは、飼い主のいない羊のような群衆をご覧になって、「深く憐れまれ」ました。「はらわたが痛む」、という言葉です。神の痛むほどの愛によって私達は生かされています。
「その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただ一人、高く上げられる。偶像はことごとく滅びる」(イザ2:17~18)。

イザヤ書 15章

「わが心は、モアブのために叫ぶ。」(15:5) 

 13章から、イザヤは幻を見せられ、一つ一つ名指しして国々に裁きを預言していきます。これは24章まで続きます。24章まで読み進めると、エルサレムも含めた全世界への裁きの言葉となります。
 神は裁きの御手をもって人間の驕り高ぶりを削いでいき、世界を「全く裸に」されます(24:3)。裁きによって世の罪がそぎ落とされた先で、主を求める叫びが起こり(24:14)、復活の希望が示されるのです(26:19)。
 モアブの人々は、ケモシュの神に自分の子供を焼いてささげるようなこともしていました(列王下3:26)。それなのに、一夜にしてモアブは滅びます。自分の手に持てるだけの財をもって難民となり、国境を超えることになることが語られます。
 キリストは弟子達におっしゃいました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。神はイザヤの口を通して全世界にこのことを問われます。
 神はモアブのために叫ばれました。惜しんでいらっしゃるのです。裁きの宣告の中に、神の招きの叫びがあることを見落としてはなりません。

マタイによる福音書 17:22~27

「子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らを躓かせないようにしよう。」(17:26~27) 

神殿税は、幕屋の維持のために集めるよう神から命じられた「命の代償金」に元をもっています(出エジプト30:11以下)。
主イエスは神の子であり、神殿の主であり、神殿にまさる方です(12:6)。その方と共にいる主の弟子達、今で言えば、キリスト教会は神殿税を納めなくてもいいはずです(12:49)。私達にとって命の代償は神殿税ではなく、キリストの血です。
 しかし、主は「彼らを躓かせないようにしよう」とおっしゃって納税されました。ここでは誰も「躓かせない」ということを最優先にされています(18:6~7)。
「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:32)。
キリストの下に生きることが私達の自由です。主は「人々を躓かせないようにしよう」と、真理に至る道を狭めることを回避されました。教会も、この時のイエス・キリストご自身のお姿に倣いつつ、柔軟さをもって福音を世に伝えていくのです。

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