礼拝案内 / 説教集 一覧

マタイによる福音書 26:17~25
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。」(26:24) 

 家族でもたれる過越しの食卓を、主イエスは弟子達と共に囲まれました。弟子達をご自分の家族としてご覧になっています(12:49)。その中に「裏切ろうとしている」者がいる、とおっしゃいます。
 弟子達は「主よ、まさか私の事では」と代わる代わる言い始めます。しかし主は、それが誰かをおっしゃいません。それ以上に弟子達にお伝えになっているのは、「聖書に書いてあるとおりに」ご自分が去って行かれる、ということでした。
 「聖書に書いてある通り」とは、イザヤ書53章の苦難の僕の歌のことが言われているのでしょう。「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」神の救いは、誰にも理解されないまま実現していきました。
 ユダは弟子達の中でただ一人、主イエスのことを「先生」と呼んでいます。「主」、ではなく「先生」です。「先生」以上の方として見ることが出来なかったようです。
 私達の前にはいつでもユダの道があります。キリストの元に留まる信仰の戦いは、「聖書に書いてある通り」になる、という希望があるからこそ続けられるのです。

出エジプト記 20:1~21
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(20:8) 

 十戒を通して契約を結んだ神とイスラエルがまずしたことは、幕屋建設でした。神は、7つの言葉によって、荒野に礼拝のための幕屋を創造されます(出エジ25:1、30:11、17、22、34、31:1、12)。荒野に安息共同体の姿が立ち上がっていきます。
 イスラエルは、神と共にこの世に礼拝を造り上げていく民です。荒野の旅の中で、神は時間の支配者としてイスラエルの歩みを守られました(出エジ40:36~37)。今でもそれは続いています。キリストが週の初めの日に復活されてから、教会は日曜日に礼拝の時を持ち、キリストの復活を記念する時として聖別するようになりました。それは、死に勝る力に包まれ、天の故郷へと心を向ける安息の時です。
 アブラハムは神から夜空を見るよう言われ「あなたからこの星のように数えきれない祝福の民が生まれる」と約束されました。私達が、アブラハム契約の実現です。
 私達の礼拝が、次の礼拝を生みます。教会は聖なる時間によって生かされながら、この世に聖なる時間を創造する業に加えられているのです。

出エジプト記 20:1~21
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(20:8) 

十戒は、どこかにいた神が突然現れて、「これを守れ」と人間に与えたものではありません。エジプトの奴隷生活から荒野を共に乗り越えて来た神とイスラエルが、「わたし」と「あなた」と呼び合いつつ、契りを結ぶ、契約の言葉です。
十戒は、安息日を心に留め、聖別することをイスラエルに求めています。安息の時間を聖別するのはイスラエルだけではありません。神も、イスラエルと共に安息日を聖別してくださいます。
神が天地創造の際そうなさったように、私達の、生きる為のマナをかき集める手を止めます。そして神と共にこの「極めて良い」世界を見つめる時間をもちます。礼拝の時の中で、私達は「神の恵みによって今日の私がある」(1コリ15:10)ことを、天地創造にまで遡って思い返すのです。
神は、この世界と共に礼拝の時間を創造してくださいました。十戒は、荒野から聞こえる誘惑の声から私達を守ってくれます。礼拝の中で沈黙し、天地創造から今に至る神の招きの恵みを思う聖なる時間が、この世界を歩む私達の生きる力となります。

マルコによる福音書 16:1~8
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。・・・さあ、行って弟子達とペトロに告げなさい」(16:6~7) 

 ペトロの名前が特にあげられています。この時一番苦しんでいたのはペトロだったからではないでしょうか。
 主が十字架にかけられてから三日間、彼は泣いていたのではないでしょうか。主を見捨て、否定し、結局自分のことが一番大事だったことを思い知らされて、恥と後悔と情けなさの中を過ごしていたでしょう。
 主イエスは、そのペトロの弱さを既に御存知でした。「あなたが私を知らないと言っても、私はあなたがまた私の所に戻って来るのを待っている」と前もっておっしゃっていたのです。
 私達がこの世界で生きる時間は、神の目には一瞬です。その一瞬の間に、私達はペトロのように「イエスなど知らない」と言ってしまい、苦しみます。神から離れた人間は苦しむのです。
 しかし、主イエスはその苦しみを知っていてくださいます。「重荷を負うている人は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」という復活の主の声に耳をすませましょう。。

詩編22編
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。」(22:25) 

 「貧しい人」という言葉が繰り返されています(25、27節)。これは、神が無くては生きていけないという貧しさです。一滴の水を求めるように神の御声を求めている人達、それが礼拝者の姿です。
人々から嘲られながらも続ける祈りは無駄には終わりません。「私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」という叫びは、「主は私の羊飼い。私には何も欠けることが無い」という23編の言葉へと変えられていきます。
祈りに応えてくださった神の御名を、「私は兄弟たちに語り伝えます」と詩人は歌います。祈りが集まれば礼拝の群れとなります。礼拝の群れは、共に讃美を捧げます(26~27節)。讃美の輪は兄弟に、集会の会衆に、全世界に、既に死んだ者、まだ生まれていない者たちにまでも広がり、全てが神の支配の内におかれていきます(28~32節)。
イエス・キリストの「天の国はあなたがたのものだ」という言葉を祈りの中で聞いた信仰者自身、そのまま神の救いの徴となり、その人の礼拝の生活がそのまま証しの生活となるのです。

詩編22編
「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。」(22 2) 

 絶望から希望へ、苦しみから讃美へ、孤独から喜びの群れへ・・・極から極へと至る祈りの詩です。
 詩人は霊の渇きを覚えています。「私の神よ」と呼び掛け、神が「私の神」であることを信じぬこうと、自分の祈りの言葉をぶつけて戦い続けます。
 22節まで続いた苦しみの訴えは、23節から突然讃美へと変わります。私達は苦しみと讃美の間にキリストの十字架を見ます。キリストの十字架を踏み越えて、私達は讃美の礼拝へと進み出て行くのです。 
 罪による死を前に「私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫ばなければならなかった私達に代わり、主が十字架の上で詩編22編を歌い上げてくださいました(ヘブ2:17)。それによって私達を讃美の礼拝へと押し出してくださったのです。
詩編は礼拝の中で祈られ、今に至るまで受け継がれて来ました。罪人の祈りの叫びが讃美へ変えられる創造の御業は、キリストの十字架が証しされる礼拝の中で起こり続けています。

イザヤ書53:1~12

「私達は羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪を全て、主は彼に負わせられた。」(53:6) 

 羊飼いを求める羊の群れ、神を求める罪人の群れ、それがイザヤの時代のイスラエルでした。「苦難の僕」の歌には、その僕が羊の群れのために受けた理不尽な苦しみが歌われています。それは人々が驚きのあまり言葉を失ってしまうような救いの業でした(53:1)。
 福音書は、人々の病を癒された主イエスの御業を、こう言っています。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼は私達の患いを負い、私達の病を担った』」(マタ8:17)。ナザレのイエスは、人々の病・痛み・苦しみを全てご自分の身に引き受けられた、あのイザヤ預言の「苦難の僕」であることを証ししています。やがてこの方の死が、多くの人々を変えていくことになります。
 救われた罪人として、私達は苦難の僕を証ししていきます。神はエリヤに「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ」とおっしゃって食べ物と飲み物をお与えになりました(列王上19:7)。耐えがたく長い私達の証しの旅路に、神は全てを備えてくださいます。

イザヤ書 50:1~11
「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」(50:6) 

バビロンで捕囚となっていたイスラエルの民の中には、「自分たちは神から一方的に離縁され、奴隷として売り飛ばされ、見捨てられた」という嘆きがありました。神は、「そんな離縁状があるのなら、見せてみよ」とおっしゃり、「捕囚という悲劇はお前たちの罪・背きの結果だとは考えないのか」と問われます(50:1)。
 民はイザヤの「エルサレムに帰ろう」という解放の預言を素直に聞きませんでした。救おうと御手を差し伸べられる神に応えようとしない民に、神は「お前たちは、それぞれ、火をともし、松明を掲げている」と言われます。
バビロンからエルサレムへの帰還は、第二の出エジプトでした。苦しい荒野の旅です。その旅に加わった「残り者たち」は、救いの苦しみの中で、「自分の松明」以上に確かな導きを体験することになりました。
苦難の僕の歌が歌われています。痛めつけられても神の招きを伝え続けた預言者の姿は、イスラエルをお求めになる神の姿そのものでした。

マタイによる福音書 26:1~16
「そのころ祭司長たちは民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。」(26:3) 

 「屋敷」とは、屋敷の中庭のことです。公には話せない内容でした。何とかナザレのイエスを殺そうと考えていた彼らに突破口をもたらしたのは、12弟子の一人、イスカリオテのユダでした。ユダが主を裏切った理由は謎です。福音書は明確なことを書いていません。
 イスカリオテは「ケリヨトの人」という意味です。ユダヤ地方の中でも南に位置する町の名前です。ユダだけは、他の弟子達と違って生粋のガリラヤ人ではなかったようです。異なった背景・意識・考え方の人だったのでしょう。この夜、ユダは他の11人とは違った葛藤を抱えていたようです。
 主イエスは銀貨30枚で引き渡されました。奴隷一人分の値段です。ゼカリヤ書11章に、神から与えられた救いの生贄の子羊に、悪い羊飼い(イスラエルの指導者)が銀貨30枚という値段をつけた、という幻の預言があります。
 この夜に錯綜していたそれぞれの思惑を超えて、神の救いのご計画は着実に進んでいたのです。

マタイによる福音書 26:1~13

「あなたがたも知っている通り、二日後は過越祭である。人の子は、十字架に付けられるために引き渡される。」(26:2) 

 天の国の教えを全て伝え終えた主イエスは、ご自分の十字架の死が過越祭の中で起こることをおっしゃいました。ご自分の死が、世に新しく与えられた過越の救いであることを示されたのです(ヨハ1:29、1コリ5:7)。
 ベタニアでの食事の席で主イエスは香油を注がれました。それは弟子達も、シモンの家の人達も、香油を主に注いだ女性本人も気づくことの無かった、歴史上最も厳粛な瞬間でした。主は「彼女は香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた」とおっしゃいます。神が御独り子を過越しの羊として屠り場へと召し出すために油注がれた瞬間でした(イザ61:1~3)。文字通り、この方は「メシア(油注がれた者)」なのです。
その瞬間に居合わせた弟子達は、全力でその光景を目に焼き付け、心に刻むことが求められました。「貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいる」と言われています。聖書が言う「貧しさ」は、地上の富では満たすことの出来ない魂の飢え渇きという、霊的な貧しさです。教会は、重荷を負う人たちに、十字架へと召されたメシアの元に魂の解放があることを示していくのです。

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