投稿者のアーカイブ

マタイによる福音書 21:33~46

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私達の目には不思議に見える。」(21:42) 

 ブドウ園の農夫たちが、主人の許から送られて来る僕たちを次々と殺した、というたとえ話です。キリストはこのたとえ話を、預言者が殺され(歴代下24:21)、エレミヤが「強盗の巣」と呼んだ(エレ7:11)、まさにその場所(神殿の境内)で語られました。これは、イスラエルが預言者を拒んできた歴史を表すたとえ話なのです。
 たとえの中で主人は最後に自分の息子を送ります。その息子はブドウ園の外に放り出されて殺されました。エルサレムの町の外に放り出されて殺されるキリストの運命を暗示します。
 旧約聖書に、ダニエルがバビロン王の夢を解き明かす場面があります(ダニ2章)。大きな像に「人の手によらない一つの石」が投げられ、像は砕かれ、その石が山となり全地に広がる、という夢です。神の国が人間の国にとって代わることが示された夢でした。
「人の手によらない石」はゴルゴタの丘に捨てられました。しかし、その石が神の国の礎となりました。私達の目に不思議に見える神の救いの計画は、今も進んでいます。

マタイによる福音書 21:28~32

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(21:31) 

 たとえの中で、兄は「考え直し」ました。「悔い改めた」のです。悔い改めて神の御心を行う、立ち返りのイスラエルの姿です。弟は「お父さん、承知しました」と言いました。「主よ、私が」という言葉です。しかし、返事だけでした。
 神は、イザヤの口を通してイスラエルのことを、「実をつけないブドウ畑」と嘆かれました。「私がブドウ畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか」と言われます(イザ5章)。
 自分たちこそ神の言葉を知っていると思っていた祭司長・民の長老たちは皮肉にも、人となって来られた神に向かって「何の権威でこのようなことをしているのか」と言いました。ヨハネが示した義の道を信じた徴税人・娼婦たちが「兄」であり、彼らは「弟」なのです。
 ヨハネが示した「義の道」とは、大牧者イエス・キリストへと通じる道のことです(1ペト2:24以下)。「先に入る」は、「先導する」という言葉です。「主よ、憐れんでください」とキリストに立ち返る罪人の姿が、世の人々を神の国へと先導することになるのです。

マタイによる福音書 21:23~27

「祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『なんの権威でこのような事をしているのか』」。(21:23) 

 「預言者」とか「ダビデの子」とか呼ばれているナザレのイエスに、エルサレムの指導者たちは、その権威の源を尋ねました。
 主イエスは逆に、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか」と問われます。ご自分の権威は洗礼者ヨハネに与えられていたのと同じものであり、その権威に対して彼らがどう向き合うのか、という問いかけです。
 群衆の反応を恐れた指導者たちは「わからない」と答えました。人の目を恐れた彼らの主イエスへのあいまいな態度・不信仰が、主を十字架へと上げていくことになります。
 「私は天と地の一切の権能を授かっている」と復活の主は弟子達におっしゃいました(28:18)。教会を迫害したパウロも、主を見捨てて逃げたペトロも、この方に天からの権威を見、主の復活を証しすることに命を捧げるようになりました。
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5:29)。私達は自分が従う「権威」を問われつつ、同時に、それを世に問いかける役割を担っています。

マタイによる福音書 21:18~22

「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(21:22) 

 預言書には、神は不信仰のイスラエルを実をつけないイチジクと呼んで叱られている言葉がよくあります(ミカ7:1、エレ8:13など)。
 葉っぱだけが茂り実をつけていない、見かけだけ立派なイチジクを主イエスは枯らされました。それは祈り無き「祈りの家」のエルサレム神殿の行く末を示す象徴預言でした。
 主は「来月になれば実がなるだろうから、それまで待とう」とはおっしゃいませんでした。「悔い改めに相応しい実を結べ」「斧は既に木の根元に置かれている」という、神への立ち返りを求めるヨハネの切迫した言葉を思い出します。
 枯れたいちじくを見て驚いた弟子達に、主は「信じて祈るならば何でも得られる」とお教えになります。主の復活後の弟子達を支えるものが何であるかをここで示されたのです。
 後にペトロは、神殿の境内で生まれながら足の不自由な人を癒す際、こう言いました。「私には金や銀はないが、持っている者を上げよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章)。 世の終わりが迫る中、キリストの御心だけが実現していきます。

マタイによる福音書 21:1~11

「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。」(21:10) 

 ガリラヤからの巡礼者たちは主イエスの前後で「ダビデの子ホサナ」と叫び、「これはガリラヤのナザレから出た預言者だ」とエルサレムの人々に伝えました。エルサレムは揺れます。ナザレのイエスはエルサレムにとって政治的にも宗教的にも危険な火種となるのではないか。
 聖書は、主のエルサレム入城をゼカリヤ預言の実現であることを証しします。「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」(ゼカ14:14)、「見よ、あなたの王が来る・・・高ぶることなく、ロバに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って」(ゼカ9:9)。
 主はヨルダン川を渡り、オリーブ山を通り、エルサレムへと入られました。これは、ダビデが息子のアブサロムに追われ、その後アブサロムとの戦いに勝ってエルサレムへと帰還した道筋です。息子の死を悼みつつ、自分に赦しを乞う者を一人一人許しつつダビデはエルサレムに入場しました。ここで我々が見るのは、死の痛みを担い、赦しをもたらすために慎ましく入城される、柔和なダビデとしてのキリストのお姿です。

マタイによる福音書 20:29~34

「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」(20:34) 

 二人の盲人がエリコの町を出たところの道端にいました。エルサレムにむかう人たちが必ず通る場所です。2人はここでナザレのイエスの足音を聞き分けようと、じっと待っていました。
 彼らは「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんでください」と叫びました。群衆に黙るよう叱られても、求め続けました。2人の祈りの叫びが主イエスの歩みを止め、主の御許へと招かれました。
 「何をしてほしいのか」との問いに、「主よ、目を開けていただきたいのです」と主の憐れみを求めます。この方に神の憐れみを求める信仰をお認めになったキリストは、2人の目を開かれます。
 「その日には・・・盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」(イザ29:18~19)。
 二人は一週間後、この方の十字架を自分の目で見ることになります。主イエスはただ彼らと出会い、癒されただけでなく、十字架の証人として召されたのです。キリストとの出会いは点で終わりません。その出会いによって、キリストの御業を見続ける道を生きることになるのです。

マタイによる福音書 20:17~28

「一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(20:27) 

 弟子達に最後の受難予告がされました。主イエスははじめてここで「私達」という主語をつかわれました。これからエルサレムで起こることは、主イエスお一人だけで完結することではなく、弟子達、また信仰者にとって自らのものとしなければならないものなのです。
 その受難予告を聞いても、弟子達はまだ、主の十字架が神の救いの御業であるという「天地創造から隠されていた天の国の秘密」であることを悟っていません。主がおっしゃる「この私が飲もうとしている杯」が何か、「私の右と左」にある座がどこかも、知りません。「あなたがたは自分が何を願っているのか分かっていない」と言われてしまいます。 
 パウロは手紙の中で書いています。「私達が神を賛美する杯は、キリストの血にあずかることではないか。私達が裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」「何をするにしても、全て神の栄光を現わすためにしなさい」(1コリ10:16、31)。
 「十字架の言葉」を聞いた時「主の杯」「主の右と左」を知り、天の国に生きることを始めるのです。

マタイによる福音書 20:1~16

「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。』」(20:13) 

 天の国のたとえ話です。ブドウ園の主人は、後から雇った人たちから始めて、先に来た人達に賃金を支払いました。しかも、一律1デナリオン(1日分の賃金)です。最初に雇われた人たちは不満をもらします。なぜ後から来た人達も同じ扱いなのか、と言うのです。それに対して「友よ、あなたに不当なことはしていない」と主人は答えます。
 この話は神の支配がどのように及ぶのかを描いています。最後に、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という主イエスの解説の言葉で締めくくられています。
 私達にとって一番理解に苦しむのは神の愛の大きさではないでしょうか。値無き者にも、「あなたは私の目に値高い」と言ってくださるのです(イザ43:4)。神は人となり、世に来られ罪人を取り戻そうとされました。「誰も雇ってくれないのです」と嘆きながら夜を迎えようとする人達を雇い養ったブドウ園の主人のように、罪の中なすすべもなく立っていた私達に「私はあなたを迎えたいのだ」とおっしゃいます。
 私達は、とらえきることができないほどの恵みを受けています。

マタイによる福音書 19:16~22

「イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた。」(19:26) 

 財産は神の祝福だと考えられていました。それに加えて「聖書の掟を全て守ってきました」と言いきった金持ちの若者は、弟子達にとって理想でした。しかし、主イエスは去って行く若者の背中をご覧になって「金持ちが天の国に入るのは難しい」とおっしゃいす。
 弟子達は「それでは、誰が救われるのか」と戸惑います。主は天の国に入ることを、針の穴を通ることになぞらえていらっしゃいます。絶対に無理なことです。
 アブラハムもサラも「あなたに子供が与えられる」と告げられた時、100歳と90歳の夫婦に子供は出来るはずはない、と笑いました。翌年、イサクが誕生します。そこからイスラエルが生まれ、キリスト教会へと成長しました。我々人間には「無理」としか思えない救いを成し遂げられるのは、神なのです。
 「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と主はおっしゃいました。救いを成し遂げてくださる神に全てを委ね、従うその先で、全てが神によって整えられ、与えられていくのです。 

マタイによる福音書 19:1~12
「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」(19:4) 

 ヘロデの結婚に苦言を呈した洗礼者ヨハネは、ペレア地方で首をはねられました。その地方をお通りになった主イエスに、ファリサイ派の人たちが「離縁」という問題を持ち出して試そうとします。
 ユダヤでは長い間聖書の掟の解釈についての議論が続けられてきました。その議論を通して様々な解釈が生まれ、派閥が出来て行きました。当時は、「夫は自分の都合で妻を離縁していい」、というヒレル派の理解が、広く受け入れられていたのです。
 ガリラヤから来たイエスはどの派の理解を持っているのか、という興味をもっていたファリサイ派の人たちに、主イエスまずおっしゃったのは「天地創造においてどうだったか」ということでした。「申命記のあの掟に関してどの派の解釈が正しいのか」、という狭い議論ではなく、「天の国を見失っているのではないか」というキリストの問いです。
 天地創造まで遡って考え、そこから今の自分を顧みると、結婚の有無も含め、この体も命も、歩いている道も、全てがそれぞれに応じて与えられた賜物であることを知らされます。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」(1コリ7:7)。

カテゴリーとタグ
2018年11月
« 10月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
ログイン
アクセス情報