投稿者のアーカイブ

マタイによる福音書 17:14~20

「弟子達はひそかにイエスの所に来て、『なぜ、私達は悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った。」(17:19) 

 弟子達は以前ガリラヤで行ったように、「自分たちが」少年を悪霊から救えると思い、悪霊払いを試みました。結果は失敗でした。群衆の前で恥をかき、戸惑い、主イエスにひそかに質問しに来ました。
主イエスの答えは単純なものでした。「信仰が薄いからだ」。「あなたがたに信仰がないからだ」と訳した方が文脈の意味が通ります。この時弟子達は「からし種一粒」ほど(最小のものを意味する表現)の信仰すら失っていたのです。
信仰の働きの確かさは人間の側にあるのではありません。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」(イザヤ書54:10)。神の契約に信仰・祈りの確かさがあるのです。からし種一粒ほどの信仰を手放すまいともがく私達は、そのもがきの中で、神の奇跡のために用いられていきます。
主イエスは、弟子達に「その子をここに、私の所に連れて来なさい」とおっしゃいました。弟子達は少年の手を引いて主の元に連れて行きました。ここで弟子達が求められた信仰の業は、これだったのです。

マタイによる福音書 17:1~13

「イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない』と弟子達に命じられた。」(17:9) 

 山から下りる際、まず主がなさったのは弟子達への沈黙命令でした。この時の弟子達はまだキリストの十字架も復活も見ていません。自分たちの先生をどう理解すればいいのか、揺れていました。キリストの復活を知らない者がキリストを宣べ伝えると歪んで伝わってしまいます。
 弟子達はエリヤについて質問をしました。今自分たちが山の上で見た終末の預言者エリヤ(マラキ書4:23)をどう捉えればいいのか分からなかったのです。主は「言っておくが、エリヤは既に来たのだ」とおっしゃいます。
以前にも主イエスは洗礼者ヨハネについて、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました(11:14~15)。
 分かったから認めるのではありません。主の復活を認めようとするところから、神のご計画が分かって来るのです。私達は、主の復活に向き合うところから、終末の時を生きる自分に与えられた救いを知っていくことになります。

マタイによる福音書 17:1~13

「『これは私の愛する子。私の心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」(17:5) 

 主イエスはガリラヤでの宣教を終え、これから弟子達と共にエルサレムへと旅をされることになります。その旅は、「大衆の期待」とは異なる、メシアに課された「神の計画」が示された、主の弟子教育の時間でした。
 旅の初めに主が弟子達にお見せになったのは、ご自身の、神としての栄光のお姿でした。六日前に主の受難予告を聞いてからの弟子達の心は揺れていたでしょう。
その弟子達に、雲の中から神の声が響きました。「この者は、私の愛する子。私が望む救いの業のために、この者は十字架で殺されることになる。私はそのことを喜ぶ。あなたがたはこの者の声に従え。」
 後にペトロはこの山の上での体験を通して、「聖書の預言を何一つ自分勝手に解釈してはならない」と教会の信仰者たちに伝えています(2ペト1:16~21)。ペトロは自分の期待を超えた、神の大きな救いのご計画を復活のキリストのお姿を通して見たのです。
私達が生きる日々は、私達の思いを超えた、キリストの栄光の内に置かれています。

マタイによる福音書 16:21~28

「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(16:24) 

 原文は、「私の『後に』ついて来たい者は・・・」という言葉です。ペトロは主イエスを慕うあまり、十字架に向かおうとされる主の「前」に立ちはだかりました。主はそのペトロに「サタン、引き下がれ」と、「後ろ」に戻ることをお命じになります。
 ペトロは荒野で主を誘惑したサタンの役割を担ってしまいました(4章)。サタンは、主イエスと激しく戦いに来たのではありません。主が一番苦しい時に、寄り添い助けに来たのです。ゴルゴタへの出発点に立った主イエスにとって、ペトロの言葉ほど嬉しく、そして大きな誘惑はなかったでしょう。
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」主イエスがおっしゃる「命」は「存在・本当の自分」という意味が含まれています。
 ペトロは後に、保身のために「イエスを知らない」と言いました。自分を守るために主イエスを捨てたペトロは、「自分」を失い、激しく泣きました。主はそのような罪人のために「命」を取り戻すために、世に来てくださったのです。

マタイによる福音書16:21~28
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(16:22) 

 栄光ではなく受難へと向かうメシアは、弟子達の期待を裏切るメシアでした。
 信仰を守り、伝えるために、イスラエル・教会は、なぜあんなに苦しんだのでしょうか。罪の力の抵抗が激しいからです。「神はあなたを愛し、求めていらっしゃる」と伝えるだけで、痛みが伴うのです。
 使徒パウロは書いています。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリ1:18)。
 私達にとって、キリストの十字架こそ人間の思いをはるかに超えたしるし・知恵です。主イエスは後に「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」(20:28)とおっしゃいました。その痛みに与るよう主は弟子達を招かれます。
 同胞が一人また一人と神に背を向けていくイスラエルの中で、信仰に留まる霊的な戦いを続けながら痛みをもって信仰を次の世代に残した人たちがいました。信仰の生命線となるよう、私達も召されているのです。

マタイによる福音書 16:13~20

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(16:18) 

 シモンは「ペトロ(岩)」という名前を主からいただきました。「岩」という言葉から、シモンは何事にも動じない信仰をもった人という印象を受けますが、そうではありませんでした。
 ペトロと呼ばれる前に、彼は「シモン・バルヨナ」と呼ばれています。バルヨナはアラム語で「ヨナの子」という意味です。ヨナ書に出て来るヨナは、神から逃げ、逆らい、不平をもっていた人でした。しかし、そのようなヨナが用いられ、神の救いのご計画が進められたのです。ペトロはヨナのような岩でした。
 教会の本当の基礎は、イエス・キリストというかなめ石です(エフェ2:19~22)。ペトロ自身、後に「主の元に来なさい」と書いています。そのかなめ石の上に使徒や預言者の証しがあり、教会はその上で生かされています。(1ペト2:4~5)。
キリストが命を懸けて据えてくださった石を土台とする限り、教会は人間が絶対に自分の力で勝つことの出来ない死の力に勝るのです。

ルカによる福音書 2:1~20

「主の天使が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(2:9) 

 聖書は、この世界を、私達が天の故郷に帰るまでの「仮の住まい」であると言っています。そしてこの世界に住む我々人間を、天の故郷への道を見失ってしまっている「罪人」見ます。
 キリストの誕生は、群れから迷い出て帰り道が分からず、死を待つしかなかった子羊を、羊飼いが探しに来てくださったということです。私達にとってそれは、歩みが真の故郷へと転換した喜びの瞬間です。
 子羊を見出だした羊飼いの喜びは、見出された子羊よりも大きかったのではないでしょうか。クリスマスは、「あなたはそこにいたのか。ずっと探していたよ」という神の喜びの時なのです。
 本当のクリスマスの意味を知った時、私達は立っていられないのではないでしょうか。羊飼いたちは天使に照らされて「非常に恐れ」ました。ペトロが自分の舟の上ではじめて主イエスに会い、その御業を見た時、恐れ、崩れ落ちました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言いました。主はペトロを立たせ、ペトロに相応しい歩みへと導かれました。今、この奇跡が私達一人一人に起こっています。

イザヤ書 14:23~32

「その軛は、我が民から取り去られ、その重荷は、肩からはずされる。」(14:30) 

 アッシリア帝国の軛からの解放が預言されています。軛は「支配」のことです。「この世」という重荷からの解放の預言です。
 聖書は、人は自分を支配することができないことを教えています。自分という重荷をどこに持って行けばいいのかわからず彷徨う罪人に、「重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。私の軛を負い、私に学びなさい」と招くメシアが来てくださいました。
 30節に小さな救いの預言が出てきます。「乏しい者も糧を得、貧しい者も、安らかに伏す」。「神のようになろう」と巨大な帝国を築いた王よりも、「もう神にしか希望を見いだせない」と祈る、乏しく貧しい者の方が強いことが示されます。ある人は「自分がどこから来て、どこに向かっているのかを知っている人は、自分の命をどこに据えるのかも知っているのだ」と言っています。
「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々・・・は幸いである」とメシアは宣言しました。神がまず心を向けられるのは、ご自分を求める小さき者たちなのです。神は今ここで、キリストを通して働き、歴史を支配し、救いの完成へと導いていらっしゃいます。

12月10日の聖書・説教要旨
イザヤ書 14:12~23
「悪を行う者たちの末は、永遠に、その名を呼ばれることはない。」
(14:20) 

 バビロン王は心に思います。「王座を神の星よりも高く据えよう」(13節)。神以上の高みを目指す、人の驕りです。「神のようになりたい」と願う思いは、アダムとエバの時代から人の心の奥底に残っています。
 「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神はみ旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせる」(ダニ4:14)
一番輝く明けの明星でも、太陽が上るとその光の中で消えてしまいます(12節)。イザヤは、神に滅ぼされる世の罪の力・サタンを、滅ぼされたバビロン王を通して描き出すのです。
 世の高みを目指し、神の座を求めたバビロン王は滅び、その名は呼ばれなくなりました。しかし、世の罪人のために、十字架の死に至るまで仕えてくださった苦難の僕・イエス・キリストの名は今に至るまで残っています。
 神の国のために自分を捧げた者の名を、神は決してお忘れになることはありません。絶えずキリストと一緒に踏みとどまって、神がお望みになる低い「偉さ」を求めていきましょう。

イザヤ書 14:1~11

「主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る。」(14:3) 

 4節以下はバビロンの滅びを嘲る歌です。滅ぶ「バビロン」は人間の驕りを象徴しています。サタンに勝利される神への讃美の歌なのです。
歌われているバビロン王の滅びは、私達にとって他人事ではありません。申命記で、モーセは言っています。「あなたたちは、・・・主の命令に背き、主を信頼せず、その声に従わなかった。主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けて来た」(9:22以下)。預言者エゼキエルも「主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え」(エゼ36:32)と言葉を残しています。
 イザヤが幻を通して見せているバビロンは、イスラエル(教会)の内にある「霊的なバビロン」として捉えてもいいのではないでしょうか。
 アッシリア、バビロン、ペルシャ・・・強大な帝国が次々と時代を築きました。しかし、どの国も残りませんでした。残ったのは、弱小のイスラエル、その中でも神への信仰を貫いた「残りの者たち」でした。
 「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし・・・身分の低い者を高く上げ」られる、とマリアは讃美します(ルカ1:51以下)。神の前に低く生きることで、私達は「残りの者」となります。

カテゴリーとタグ
2018年4月
« 3月    
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  
ログイン
アクセス情報