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イザヤ書 50:1~11
「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」(50:6) 

バビロンで捕囚となっていたイスラエルの民の中には、「自分たちは神から一方的に離縁され、奴隷として売り飛ばされ、見捨てられた」という嘆きがありました。神は、「そんな離縁状があるのなら、見せてみよ」とおっしゃり、「捕囚という悲劇はお前たちの罪・背きの結果だとは考えないのか」と問われます(50:1)。
 民はイザヤの「エルサレムに帰ろう」という解放の預言を素直に聞きませんでした。救おうと御手を差し伸べられる神に応えようとしない民に、神は「お前たちは、それぞれ、火をともし、松明を掲げている」と言われます。
バビロンからエルサレムへの帰還は、第二の出エジプトでした。苦しい荒野の旅です。その旅に加わった「残り者たち」は、救いの苦しみの中で、「自分の松明」以上に確かな導きを体験することになりました。
苦難の僕の歌が歌われています。痛めつけられても神の招きを伝え続けた預言者の姿は、イスラエルをお求めになる神の姿そのものでした。

マタイによる福音書 26:1~16
「そのころ祭司長たちは民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。」(26:3) 

 「屋敷」とは、屋敷の中庭のことです。公には話せない内容でした。何とかナザレのイエスを殺そうと考えていた彼らに突破口をもたらしたのは、12弟子の一人、イスカリオテのユダでした。ユダが主を裏切った理由は謎です。福音書は明確なことを書いていません。
 イスカリオテは「ケリヨトの人」という意味です。ユダヤ地方の中でも南に位置する町の名前です。ユダだけは、他の弟子達と違って生粋のガリラヤ人ではなかったようです。異なった背景・意識・考え方の人だったのでしょう。この夜、ユダは他の11人とは違った葛藤を抱えていたようです。
 主イエスは銀貨30枚で引き渡されました。奴隷一人分の値段です。ゼカリヤ書11章に、神から与えられた救いの生贄の子羊に、悪い羊飼い(イスラエルの指導者)が銀貨30枚という値段をつけた、という幻の預言があります。
 この夜に錯綜していたそれぞれの思惑を超えて、神の救いのご計画は着実に進んでいたのです。

マタイによる福音書 26:1~13

「あなたがたも知っている通り、二日後は過越祭である。人の子は、十字架に付けられるために引き渡される。」(26:2) 

 天の国の教えを全て伝え終えた主イエスは、ご自分の十字架の死が過越祭の中で起こることをおっしゃいました。ご自分の死が、世に新しく与えられた過越の救いであることを示されたのです(ヨハ1:29、1コリ5:7)。
 ベタニアでの食事の席で主イエスは香油を注がれました。それは弟子達も、シモンの家の人達も、香油を主に注いだ女性本人も気づくことの無かった、歴史上最も厳粛な瞬間でした。主は「彼女は香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた」とおっしゃいます。神が御独り子を過越しの羊として屠り場へと召し出すために油注がれた瞬間でした(イザ61:1~3)。文字通り、この方は「メシア(油注がれた者)」なのです。
その瞬間に居合わせた弟子達は、全力でその光景を目に焼き付け、心に刻むことが求められました。「貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいる」と言われています。聖書が言う「貧しさ」は、地上の富では満たすことの出来ない魂の飢え渇きという、霊的な貧しさです。教会は、重荷を負う人たちに、十字架へと召されたメシアの元に魂の解放があることを示していくのです。

マタイによる福音書 25:31~46

「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、私にしてくれたことなのである。」(25:40) 

 オリーブ山の教えの締めくくりの言葉です。人の子が栄光の座に着き、世を裁かれる際の情景が描き出されています。
世の終わりに集められた「全ての国の民」は、祝福と呪いの岐路で、キリストから「私の兄弟である最も小さい者の一人」に対してどうであったか、と問われるのです。
祝福へと分けられた人達は「天地創造の時から用意されている国」の支配を任されることになることが言われています。アダム(人)とエバ(命)のために創造された楽園に、全ての被造物を取り戻そうと、神は今も働かれていらっしゃいます。
「私達は皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら・・・主と同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリ3:18)
キリストは教会の一人ひとりのことを「私だ」とおっしゃっています。教会は聖霊によってイエス・キリストの似姿として世に生き、王の右側(救いの祝福)に通じる道を示していくのです。

マタイによる福音書 25:14~30
「『忠実な善い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(25:21) 

 天の国のたとえ話です。旅に出る主人からタラントンという単位(6千日分の賃金)の財産を預けられた僕の姿を通して、キリストの再臨を待つ私達の現実が語られています。
 主人は帰って来て、タラントンを増やした僕に、「お前は少しのものに忠実であったから・・・」と言います。タラントンが「少しのもの」と言われています。それに勝る宝が「忠実な善い僕」に与えられます。それは、「更に多くの主人の財産の管理を任される」、ということでした。
 教会はキリストに忠実であればあるほど、ますますキリストの僕とされ、恵みの支配に深く入れられる幸いを得ます。それこそ、我々にとって罪からの「解放」です。
 教会は天の国の鍵をキリストから授かっています(16:19)。新品同様きれいなままで保管されることをお望みではありません。タラントンという単位にたとえられるに相応しい重みをもった主の御業を託されているのです。

マタイによる福音書 25:1~13
「愚かな乙女たちが買いに行っている間に花婿が到着して、用意のできている5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。」(25:10) 

 「神に従う人の光は喜ばしく輝き、神に逆らう者の灯は消される」(箴言13:9)。この天の国のたとえ話に出て来る、光を失った「愚かな花嫁たち」は神に逆らう者・反キリストの姿です。
 主イエスは「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました(7:7)。同時に「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」ともおっしゃいます(7:21)。
 このたとえ話から、主の「門をたたきなさい」という教えは、「今、たたきなさい」ということであることがわかります。花婿が来てから油を買いに行き、それから門をたたくのでは遅いのです。時を逃してならないことを主は繰り返しおっしゃいます。
 聖書は神とイスラエル、キリストと教会との契約関係を、花婿と花嫁の結婚関係として語っています。私達はキリストの花嫁とされている祝福に生きています。それに加えて、婚宴の席に人々招く介添え人としての喜びも与えられているのです(ヨハネ福音書3:29)。

マタイによる福音書 24:45~51
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。」(12:45) 

「主人と僕」は、キリストと弟子達、神と教会を表しています。
「忠実」は「信仰」の類義語です。パウロは「私達は神の秘められた計画の管理者です」「我々管理者に要求されるのは忠実であることです」と言っています(1コリ4章)。主に忠実であることの先に、主人の全財産を管理させていただく、つまり主の御業を担わせていただく幸い・祝福が待っています。
悪い僕は、主人の喜びではなく、自分が主人になる喜びを求めました。今自分がいるのは、主人の家であり、自分が殴っているのは主人の僕たちであり、そして自分も本当は主人の僕であるということすら忘れてしまいました。イスラエルが繰り返し陥った、一番大切なことを忘れてしまった信仰者の姿です。「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いた、などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい」(申命記8:17)。
私達の今が、主人が戻って来る時に向かっている今であることを忘れないことが、既に勝利なのです。

マタイによる福音書 24:26~44
「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。この事をわきまえていなさい。」(24:42~43) 

 キリストの弟子達の「主」は、「帰ってくる主」であることが大前提とされています。そして「主の帰還がいつなのか自分たちでは分からない」ことをわきまえておきなさい、と言われます。
 主イエスはノアの話をなさいました。不法の日常の中で、神は裁きのご計画を義の人ノアにお告げになりました。ノアは陸の上に船を造ります。しかしノアに倣う者はいませんでした。
「その日」まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。「その時」まで日常があったのです。誰も今自分たちの前の前にある日常が明日なくなるとは考えませんでした。神の救いへの招きに耳を傾ける人がどれほど少ないか、という現実を突きつける物語です。
 ある人は、「信仰とは神の言葉を生活することだ」、と言いました。私達の信仰は、今の生活が全てキリストとの再会への秒読みの中にあることを忘れない、というところにあるのです

マタイによる福音書 24:32~34
「これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(24:33) 

 偽預言者・偽メシアの出現、律法への離反、信仰者たちへの誘惑の試練、エルサレム神殿の崩壊・・・全て、世の終わりの徴です。安易な救いが溢れる中で、惑わされないために忘れてはならないのは「人の子が戸口に近づいている」ことだ、と主はおっしゃいます。
「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私達の神の言葉は永久に立つ」というイザヤの言葉を、主イエスは繰り返されました。「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。
 「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(35節)の「滅びる」は「過ぎ去る」という言葉です。主イエスはゲツセマネで「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られました。しかし、苦しみの杯はこの方から「過ぎ去り」ませんでした。そのことによって私達罪人から裁きが「過ぎ去った」のです。大きな逆説の救いです。
 「民の残りの者が都から全く断たれることはない」(ゼカ14:2)。キリスト者は、世の終わりの徴に惑わされず、「残りの者」として永久に立つ神の言葉を証しするのです。

マタイによる福音書 24:29~31
「その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上の全ての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて・・・」(24:30) 

 天体・宇宙に異変が起こる、という表現は、黙示文学の中でよく用いられます。神が人の想像を超えてもたらされる大転換を指しています。
 この主イエスの言葉の背景にはゼカリヤ預言があります。ゼカリヤは、自分たちを守り、祈りの霊を注ごうとして来てくださった神をエルサレムが殺してしまい、殺した相手が神であることを知って悲しむことになる、と預言します。(ゼカ12:9~10)。
 メシアを自分の手で殺す、という悲しみと無関係でいられる人はいません。しかし、その悲しみの先で栄光に満ちた「人の子」の到来を見ることになる、と主はおっしゃいます。主の復活、主の再臨です。
 苦しみの日々の先にある希望を見据えて、主の弟子達は信仰の忍耐を続けました。教会は今も神の国のために苦しみを受けています(Ⅱテサ1:4~7)。忍耐をもって、主と顔と顔を合わせる日に備えていきましょう。

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