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マタイによる福音書 20:29~34

「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」(20:34) 

 二人の盲人がエリコの町を出たところの道端にいました。エルサレムにむかう人たちが必ず通る場所です。2人はここでナザレのイエスの足音を聞き分けようと、じっと待っていました。
 彼らは「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんでください」と叫びました。群衆に黙るよう叱られても、求め続けました。2人の祈りの叫びが主イエスの歩みを止め、主の御許へと招かれました。
 「何をしてほしいのか」との問いに、「主よ、目を開けていただきたいのです」と主の憐れみを求めます。この方に神の憐れみを求める信仰をお認めになったキリストは、2人の目を開かれます。
 「その日には・・・盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」(イザ29:18~19)。
 二人は一週間後、この方の十字架を自分の目で見ることになります。主イエスはただ彼らと出会い、癒されただけでなく、十字架の証人として召されたのです。キリストとの出会いは点で終わりません。その出会いによって、キリストの御業を見続ける道を生きることになるのです。

マタイによる福音書 20:17~28

「一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(20:27) 

 弟子達に最後の受難予告がされました。主イエスははじめてここで「私達」という主語をつかわれました。これからエルサレムで起こることは、主イエスお一人だけで完結することではなく、弟子達、また信仰者にとって自らのものとしなければならないものなのです。
 その受難予告を聞いても、弟子達はまだ、主の十字架が神の救いの御業であるという「天地創造から隠されていた天の国の秘密」であることを悟っていません。主がおっしゃる「この私が飲もうとしている杯」が何か、「私の右と左」にある座がどこかも、知りません。「あなたがたは自分が何を願っているのか分かっていない」と言われてしまいます。 
 パウロは手紙の中で書いています。「私達が神を賛美する杯は、キリストの血にあずかることではないか。私達が裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」「何をするにしても、全て神の栄光を現わすためにしなさい」(1コリ10:16、31)。
 「十字架の言葉」を聞いた時「主の杯」「主の右と左」を知り、天の国に生きることを始めるのです。

マタイによる福音書 20:1~16

「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。』」(20:13) 

 天の国のたとえ話です。ブドウ園の主人は、後から雇った人たちから始めて、先に来た人達に賃金を支払いました。しかも、一律1デナリオン(1日分の賃金)です。最初に雇われた人たちは不満をもらします。なぜ後から来た人達も同じ扱いなのか、と言うのです。それに対して「友よ、あなたに不当なことはしていない」と主人は答えます。
 この話は神の支配がどのように及ぶのかを描いています。最後に、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という主イエスの解説の言葉で締めくくられています。
 私達にとって一番理解に苦しむのは神の愛の大きさではないでしょうか。値無き者にも、「あなたは私の目に値高い」と言ってくださるのです(イザ43:4)。神は人となり、世に来られ罪人を取り戻そうとされました。「誰も雇ってくれないのです」と嘆きながら夜を迎えようとする人達を雇い養ったブドウ園の主人のように、罪の中なすすべもなく立っていた私達に「私はあなたを迎えたいのだ」とおっしゃいます。
 私達は、とらえきることができないほどの恵みを受けています。

マタイによる福音書 19:16~22

「イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた。」(19:26) 

 財産は神の祝福だと考えられていました。それに加えて「聖書の掟を全て守ってきました」と言いきった金持ちの若者は、弟子達にとって理想でした。しかし、主イエスは去って行く若者の背中をご覧になって「金持ちが天の国に入るのは難しい」とおっしゃいす。
 弟子達は「それでは、誰が救われるのか」と戸惑います。主は天の国に入ることを、針の穴を通ることになぞらえていらっしゃいます。絶対に無理なことです。
 アブラハムもサラも「あなたに子供が与えられる」と告げられた時、100歳と90歳の夫婦に子供は出来るはずはない、と笑いました。翌年、イサクが誕生します。そこからイスラエルが生まれ、キリスト教会へと成長しました。我々人間には「無理」としか思えない救いを成し遂げられるのは、神なのです。
 「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と主はおっしゃいました。救いを成し遂げてくださる神に全てを委ね、従うその先で、全てが神によって整えられ、与えられていくのです。 

マタイによる福音書 19:1~12
「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」(19:4) 

 ヘロデの結婚に苦言を呈した洗礼者ヨハネは、ペレア地方で首をはねられました。その地方をお通りになった主イエスに、ファリサイ派の人たちが「離縁」という問題を持ち出して試そうとします。
 ユダヤでは長い間聖書の掟の解釈についての議論が続けられてきました。その議論を通して様々な解釈が生まれ、派閥が出来て行きました。当時は、「夫は自分の都合で妻を離縁していい」、というヒレル派の理解が、広く受け入れられていたのです。
 ガリラヤから来たイエスはどの派の理解を持っているのか、という興味をもっていたファリサイ派の人たちに、主イエスまずおっしゃったのは「天地創造においてどうだったか」ということでした。「申命記のあの掟に関してどの派の解釈が正しいのか」、という狭い議論ではなく、「天の国を見失っているのではないか」というキリストの問いです。
 天地創造まで遡って考え、そこから今の自分を顧みると、結婚の有無も含め、この体も命も、歩いている道も、全てがそれぞれに応じて与えられた賜物であることを知らされます。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」(1コリ7:7)。

使徒言行録 2:1~13
「誰もかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」」(2:6) 

 創世記に、バベルの塔の出来事が記されています。人々は「有名になろう」「全地に散らされることの無いようにしよう」と、天まで届く塔のある町を建設します。人が全地に広がり、神の名が讃美されることをお求めになった神は、その人々の繋がりを、言葉の混乱によって上から壊されました。
 キリストの復活の後、五旬祭の日に「バベルの塔」の時とは反対のことが起こりました。自分の名を求めたために散らされた人間は、今度はキリストの下に一つに集められました。イエス・キリストの復活の証人である教会は地の果てに至るまで広がっていくのです。
キリストの名のもとに一つになって祈っていた群れに聖霊が注がれ、様々な言葉で神の偉大な御業が語られ始めました。あの時の聖霊は、変わらず私達に注がれ、証人として用いられているのです。
 心を尽くし、魂を尽くして神を求めるところで、教会は上から造られていきます。

マタイによる福音書 18:21~35

「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:33) 

 僕は、王から1万タラントンの負債をゆるされながら、100デナリオンの負債のある友を許すことが出来ませんでした。王は怒ります。僕が1万タラントンを返さなかったからではありません。僕が自分の赦しに倣わなかったからです。
 このたとえ話を聞いた弟子達は、「1万タラントンの負債をゆるす王などいるだろうか」と考えたかもしれません。しかし、あの十字架を見捨てた自分を迎えに来てくださった復活の主に再会した時、たとえ話の王の姿を見たのではないでしょうか。
 パウロは、コリント教会の人たちに、許しを請う友を憐れんで受け入れ、キリストに倣うよう伝えています(Ⅱコリ2:5~11)。王の赦しの下に生きる教会のあり方を教えてくれています。
 100デナリオンは1万タラントンの60万分の1です。私達はこのたとえ話に出て来る王の姿に天の国を見つつ、王の憐れみに倣い、キリストの十字架の赦しの御業に加わります。神は憐れみの神です。神の民は、憐れみの民なのです。

マタイによる福音書 18:15~20

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(18 20) 

 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」とパウロは伝道者テモテを励ましています(2テモ4:2)。キリストをまだ知らない人に、ではなく、既にキリストを知っている教会の人々に「宣べ伝えなさい」と言っているのです。「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分の都合の良いことを聞こうと好き勝手に教師たちを寄せ集め・・・」とパウロが言うように、教会の中にも誘惑の力との戦いがあるのです。
 キリストはご自分の群を乱し、自分も群れから去ろうとする人のために「祈れ」とお命じになります。「キリストを信じる小さな者の一人」を失うことは、キリストにとって文字通り、体の一部を失う痛みなのです。
「私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)。地上の者に過ぎない二人、三人であっても、それがキリストの名(支配)の下にある祈りなら、それはキリストの祈りに加わるということであり、天の父の御心となります。

ローマの信徒への手紙12:9~21

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14) 

 「愛には偽りがあってはなりません」(9節)という言葉がこの文脈の主題です。この前のところでパウロは、「教会はキリストの体である」ということを書いています。キリストの体の一部としての互いへの愛がここで言われているのです。
 キリストの体の一部としての愛とはどのようなものでしょうか。「迫害する者のために祝福を祈りなさい」とパウロは命じています。それは私達の内にある「好き嫌い」といった感情を超えた、信仰者に課せられた最も苦しい戦いです。
 キリストは十字架の上で、目の前の人々から「メシアなら自分を救ってみろ」と嘲られました。これは荒野のサタンの誘惑の言葉と同じです。十字架の上まで追いかけて来たサタンの誘惑に対して、主は「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか分からないのです」という赦しの祈りで勝たれました。
 あのキリストのお姿を見上げて「愛」を考えると、聖書が言っている「愛」には凄みがあります。私達の「許す痛み」との戦いが、神のご計画を少しずつ実現していきます。

マタイによる福音書 18:10~14

「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(18:14) 

「主よ・・・私が子羊のように失われ、迷う時、どうかあなたの僕を探してください」(詩編119:176)。聖書が記している歴史はこれです。群れからはぐれてしまい、助けを求める羊(罪人)の声を、羊飼いである神が探し求め続けてこられた歴史です。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ、と主なる神は言われる」(エゼ18:31~32)

神は、御子イエス・キリストの血を流して契約を結び、神の民を再びご自分の牧場へと招かれました。キリストが恐れていらっしゃるのは、取り戻した羊を再び失うことです。それが天の父にとってどれだけ大きな悲しみなのかを弟子達にお教えになっています。

私達を惑わす(迷わせる)声は今でもこの世に満ちています(マタ24:3~24)。神の牧場から迷い出る者が無いよう、まず神の愛に心を向けることが求められています。「私の目にあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛し・・・恐れるな、私はあなたと共にいる」(イザ43:4~5)。

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