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マタイによる福音書 18:21~35

「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:33) 

 僕は、王から1万タラントンの負債をゆるされながら、100デナリオンの負債のある友を許すことが出来ませんでした。王は怒ります。僕が1万タラントンを返さなかったからではありません。僕が自分の赦しに倣わなかったからです。
 このたとえ話を聞いた弟子達は、「1万タラントンの負債をゆるす王などいるだろうか」と考えたかもしれません。しかし、あの十字架を見捨てた自分を迎えに来てくださった復活の主に再会した時、たとえ話の王の姿を見たのではないでしょうか。
 パウロは、コリント教会の人たちに、許しを請う友を憐れんで受け入れ、キリストに倣うよう伝えています(Ⅱコリ2:5~11)。王の赦しの下に生きる教会のあり方を教えてくれています。
 100デナリオンは1万タラントンの60万分の1です。私達はこのたとえ話に出て来る王の姿に天の国を見つつ、王の憐れみに倣い、キリストの十字架の赦しの御業に加わります。神は憐れみの神です。神の民は、憐れみの民なのです。

マタイによる福音書 18:15~20

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(18 20) 

 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」とパウロは伝道者テモテを励ましています(2テモ4:2)。キリストをまだ知らない人に、ではなく、既にキリストを知っている教会の人々に「宣べ伝えなさい」と言っているのです。「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分の都合の良いことを聞こうと好き勝手に教師たちを寄せ集め・・・」とパウロが言うように、教会の中にも誘惑の力との戦いがあるのです。
 キリストはご自分の群を乱し、自分も群れから去ろうとする人のために「祈れ」とお命じになります。「キリストを信じる小さな者の一人」を失うことは、キリストにとって文字通り、体の一部を失う痛みなのです。
「私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)。地上の者に過ぎない二人、三人であっても、それがキリストの名(支配)の下にある祈りなら、それはキリストの祈りに加わるということであり、天の父の御心となります。

ローマの信徒への手紙12:9~21

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14) 

 「愛には偽りがあってはなりません」(9節)という言葉がこの文脈の主題です。この前のところでパウロは、「教会はキリストの体である」ということを書いています。キリストの体の一部としての互いへの愛がここで言われているのです。
 キリストの体の一部としての愛とはどのようなものでしょうか。「迫害する者のために祝福を祈りなさい」とパウロは命じています。それは私達の内にある「好き嫌い」といった感情を超えた、信仰者に課せられた最も苦しい戦いです。
 キリストは十字架の上で、目の前の人々から「メシアなら自分を救ってみろ」と嘲られました。これは荒野のサタンの誘惑の言葉と同じです。十字架の上まで追いかけて来たサタンの誘惑に対して、主は「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか分からないのです」という赦しの祈りで勝たれました。
 あのキリストのお姿を見上げて「愛」を考えると、聖書が言っている「愛」には凄みがあります。私達の「許す痛み」との戦いが、神のご計画を少しずつ実現していきます。

マタイによる福音書 18:10~14

「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(18:14) 

「主よ・・・私が子羊のように失われ、迷う時、どうかあなたの僕を探してください」(詩編119:176)。聖書が記している歴史はこれです。群れからはぐれてしまい、助けを求める羊(罪人)の声を、羊飼いである神が探し求め続けてこられた歴史です。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ、と主なる神は言われる」(エゼ18:31~32)

神は、御子イエス・キリストの血を流して契約を結び、神の民を再びご自分の牧場へと招かれました。キリストが恐れていらっしゃるのは、取り戻した羊を再び失うことです。それが天の父にとってどれだけ大きな悲しみなのかを弟子達にお教えになっています。

私達を惑わす(迷わせる)声は今でもこの世に満ちています(マタ24:3~24)。神の牧場から迷い出る者が無いよう、まず神の愛に心を向けることが求められています。「私の目にあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛し・・・恐れるな、私はあなたと共にいる」(イザ43:4~5)。

マタイによる福音書 18:6~9

「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである」(18:6) 

 驚くほど厳しい言葉です。「子供のようになりなさい」から、「子供を受け入れなさい」へと主の言葉は変わります。その「小さな者」を躓かせることを、命に関わるほど重大な問題として教えていらっしゃいます。
 「同じ口から讃美と呪いが出て来るのです」(ヤコ3:10)。「私達が真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえはもはや残っていません」(ヘブ10:26)。
 主イエスが13章で語られた「毒麦のたとえ」の毒麦は、世の終わりまで私達の周りいて、私達の信仰を揺さぶります。しかし、それ以上に怖いのは、自分が毒麦になり、良い麦をダメにしてしまうことではないでしょうか。
 「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。・・・キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(ロマ14:13~15)。
 キリストに救われた者同士が互いに受け入れ合う姿は、世を招かれるキリストを証しすることになるのです。。

マタイによる福音書 18:1~5

「その時、弟子達がイエスのところに来て、『一体誰が、天の国で一番偉いのでしょうか』と言った。」(18:1) 

 「どんな人が」ではなく「誰が」一番偉いのか、という質問です。主イエスが二度目の受難予告をなさった「その時」、弟子達は自分たちの中での順列が気になり始めたようです。
 主イエスは一人の子供を彼らの中に立たせ、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とおっしゃいました。「心を入れ替えて」という言葉は「立ち返って・悔い改めて」から来ています。神の元に戻った人が、主がおっしゃる「子供」です。
「力を捨てよ、知れ、私は神」(詩編46:11)。力を捨てる、ということは勇気がいることです。自ら無防備になり、身をゆだねる、ということです。その先で、初めて「私が神である。私はあなたと共にいる」という声を聞くのです。
 「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものを御存じなのだ」と主はおっしゃいます。幼子が親に信頼して委ねるように、「私の願い通りではなく、御心のままに」とゲツセマネの闇の中で祈られました。私達はそのお姿に倣い、「子供」となるのです。

マタイによる福音書 28:1~15
「行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」(28:10) 

 死は人間がどうやっても勝つことの出来ない力です。それは絶望です。全ての人が行き着くのは、墓です。
 しかし、イエス・キリストはご自分の墓を空になさいました。死という絶望に勝利して、復活なさいました。夜明けの光の中、二人の女性たちは復活の光を見たのです。
私達には「もう終わりだ・もう何も信じられない」と思えるその先で、神は信じるべきものをもって待っていてくださいます。トンネルの闇を知っている人は、トンネルを抜けた先にある美しさも知ることになります。その光を創造された方に出会うのです。
 復活の主は「そこでわたしに会うことになる」とおっしゃいました。「ここまで来なさい。私はあなたと共にいる」と招いてくださいます。私達が神に絶望することがあっても、神が私達に絶望されることはありません。
 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。死ぬまで、ではありません。死のはるか向こう、世の終わりまで主は復活の光をもって導いてくださいます。

イザヤ書 19:16~23

「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。」(19:23) 

 エジプトへの託宣の内容が、16節から祝福への招きへと転換します。主なる神は、裁きの先でエジプトをご自分への礼拝へと導き、聖なる国民の一員とされることをお示しになります。
 「その日」には、エジプトには「5つの町」が出来、その町の一つは「太陽の町」と呼ばれる、と言われています。たった五つの町の立ち返りなど無力に思えます。しかしそのわずかな信仰者が、パン種が練粉全体を膨らませるように、世の光としての働きを担うのです。
 イザヤ書にはよく「道」という言葉がつかわれています。「慰めよ、私の民を慰めよ、とあなたたちの神は言われる・・・主のために、荒野に道を備え・・・荒れ地に広い道を通せ」(40:1~3)。何もない荒れ地・地上の混沌の中に、真っすぐに、主の礼拝へとつながる道が敷かれる希望が語られます。
 民族や国といった地上の線引きを超えて、主を礼拝する者がその道を歩き、聖なる国民が創造されていきます(1ペト2:9~11)。キリストが血を流して敷いてくださった道を歩き通すことで、我々は真理の道を証しすることになるのです。

イザヤ書19:1~15
「主の御前に、エジプトの偶像はよろめき、エジプト人の勇気は、全く失われる。」(19:1) 

 エジプトへの託宣です。主なる神はエジプトの生命線であるナイルを干上がらせ、本当の生命線がご自分にあることをお示しになります。神の裁きの御手は、アッシリアやエジプトが「我が民、我が手の業」となるところへと導いて行かれるのです(19:25)。
 アッシリアの脅威の中でこれを預言したイザヤは、恐らく人々に馬鹿にされたでしょう。内容が非現実的なのです。イエス・キリストも、十字架へと向かっているにも関わらず「身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」などとおっしゃいました(ルカ21:28)。
 「私達の聞いたことを、誰が信じ得ようか」(イザ53:1)。神は、人間の思いをはるかに超えた救いをくださいます(イザ55:9)。
 「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1:7)。神は「主を畏れる」ところへと御手を持って導いてくださいます。裁きも、試練も、我々にははかり知ることのできない恵みが隠されています。

イザヤ書 18章

「主はわたしにこう言われた。『わたしは黙して、わたしの住む所から、目を注ごう。』」(18:4) 

 クシュは、エジプトの南、現在のエチオピアの辺りの国です。ユダ王国のはるか南にあった、いわば地の果てのようなクシュにとっても、アッシリアの軍隊の南下は脅威でした。クシュの叫びに主なる神がお応えになります。神は世界の果ての祈りを聞かれ、世界の果てまで御手を伸ばされるのです。
 しかし神がおっしゃったのは「私は黙して、私の住むところから目を注ごう」という言葉でした。黙って見ているだけ、という消極的な態度に思えます。
 ある人は、「神の御業は、見ることではなく、信じることが求められているのだ」と言います。神の御手は静かに、裁かれる者の目にも、救われる者の目にも見えない仕方で伸ばされます。「毒麦のたとえ」は、神は気づいていらっしゃらないのではなく、黙って「時」が来るまで見ていらっしゃる、ということを教えています(マタ13:24以下)。
 キリストは「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」とおっしゃって、我々を信仰の戦いへと召されます。この小さな群れを通して神はご自分の勝利を世に示されるのです。

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