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ヨハネの手紙116~21
「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(4:16) 

 この手紙が書かれたのは、85年~90年頃だと言われています。皇帝ネロによる迫害(64年)、エルサレム神殿の喪失(70年)の後、「主にして神」と自称したドミティアヌス帝の支配下にあった教会への手紙です。教会は、「反キリスト(アンチキリスト)」によって苦しんでいました。
 丸亀教会の前身となる一麦園伝道所は、戦時中に解散に追い込まれた組合教会の人達と、戦後日本基督教団に留まろうとした改革派教会の人達によって立ち上げられました。特別高等警察によって追い込まれたり、仲間と別の道を行かなければならなかったり、「アンチキリスト」の中でキリストを求め続けた祈りの末の立ち上げでした。
 丸亀教会の記念誌に、教会生活はキリストとの結婚である。ひとたび結婚すれば、真心からこれを愛していくべきである」という教会員の声が記されています。利益や感情ではなく、我々は愛の契約によってキリストと一つとなって生きています。
 「神は愛なり」という真理を捨てずに生きた証し人たちの足跡が、私達の元まで続いています。

マタイによる福音書 28:16~21
「11人の弟子達はガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。・・・しかし、疑う者もいた。」(28:16~17) 

 主イエスがガリラヤで神の支配の到来を告げ始められたことを、マタイ福音書はイザヤ預言の実現として伝えています。「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4:15~16)。今、ユダを失った主の弟子達が再びガリラヤに集められ「世の光」として派遣されようとしています。
  弟子達は復活の主を前にして「疑った」とあります。自分に起こっていることが理解できず、ひるんでいる弟子達の姿です。我々自身とキリストの出会いもそうだったのではないでしょうか。自分を招いてくださっているあの方の前に、ためらいつつ近づいて行ったのではないでしょうか。
 復活の主は「なぜためらうのか。私があなたを呼んでいるのだ」とおっしゃいます。そして「行け」と命じられます。神がエリヤに「起きて食べよ、あなたの旅は長い」おっしゃったように、世に派遣されます。
 私達の旅は世の終わりまで続く、長いものです。だからこそ主は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と励ましてくださいます。この御声が、教会の一歩一歩を支えています。

マタイによる福音書 28:11~15
「婦人たちが行き着かない内に、数人の番兵は都に帰り、この出来事を全て祭司長たちに報告した」(28:11) 

 「弟子達がイエスの死体を盗まないように」と対策していた祭司長たちは、皮肉にも番兵たちからの報告を聞いて「弟子達が盗んだと言い広めよう」と対応しました。「多額の金」が番兵たちに与えられ、本当のことを言わず、こう言いなさい、と命令します。
 「多額の金」は、神の救いの創造の御業を堰き止めることができたのでしょうか。番兵たちは、大地を揺らしながら主の天使が降って来たのを見て「死人のように」なりました。気を失ったのでしょう。それほどのことを番兵たちは本当に一生、自分の内に秘めておくことができたのでしょうか。福音書にこのやりとりが記録されている、ということが、黙っていられなかったことの証拠ではないでしょうか。
 ユダヤの番兵たちが手にした多額の金は地上ですぐになくなったでしょう。しかし、イエス・キリストが私のために死に、私のために蘇られたという事実は、信仰者にとって天にまで続く、朽ちない財産です。
 託されたタラントンを埋めておくことを、主はお望みではありません。教会は天の富を用いることで立ち続けていきます。

マタイによる福音書 28:1~10
「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くよう縫い言いなさい。そこで私に会うことになる。」(28:10) 

 復活なさったイエス・キリストは、ご自分をお見捨てになった弟子達を、「私の兄弟たち」と呼び、空の墓の目撃者である女性たちを通してガリラヤへと招かれました。再び彼らを兄弟として受け入れ、故郷ガリラヤから再出発させるためです。主から弟子達に与えられた故郷ガリラヤへの道は、回復・再出発の道でした。
 キリストと弟子達とのガリラヤでの再会は、私達に起こったことでもあります。キリストとの出会いを思い返す時、キリストからの招きが与えられたのは、一番自分がキリストに相応しいとは思えなかった時ではなかったでしょうか。
 「私を信じる小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない」と主はおっしゃいました。主を見捨て、下を向いていた弟子達こそ、「最も小さな者」であり、だからこそキリストから「私の兄弟」と呼び求められたのです。

マタイによる福音書 28:1~10
「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子達に知らせるために走って行った。」(28:8) 

2人の女性たちは、週の初めの日(日曜日)の明け方、主の墓を見に行きました。他のどこにも行けなかったのでしょう。死と埋葬という、人間では太刀打ちできない死の力の支配の現実に行き当たっていたのです。
主の天使が「あの方は復活なさった」と告げます。神の声は、行き止まりと思える場所において、涙の中において与えられるのです。「主は人の一歩一歩を定め、御旨に適う道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」(詩編37:33)。女性たちは、神の子が死に勝たれたこと(福音)を知りました。
あの朝、女性たちに与えられた道こそ、キリスト教会が主の日ごとに示される道です。一本の、絶対的な道です。あの朝から教会は「急げ」と言われています。福音を待っている人に主の勝利を伝える中で、教会は何度も復活の主に出会い、恐れと喜びを新たにするのです。

マタイによる福音書 27:62~66
「『閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていた時、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを私達は思い出しました。」(27:63) 

 主イエスが埋葬された翌日の安息日に、ユダヤ人指導者たちはピラトのところに行きました。「閣下」というのは「キリエ(主よ)」という言葉です。安息日に、彼らは神ではなくローマの総督を「主」と呼び、ナザレのイエスの墓を見張るよう願い出たのです。
なりふり構わず、持てる権威を総動員して主の墓の周りで右往左往する彼らは、神の御業に必死で抗う人間の姿そのものです。しかしそれでも主の復活を止めることはできませんでした。
主の復活という神秘は、安息日にピラトを「主」と呼んでいた人達に問いを残しました。「あなたにとって、死に勝る支配を持つ『安息日の主』とは誰か」。これはそのまま今の私達に向けられた問いでもあります。私達もまた、主の墓の周りでオロオロする者の一人なのです。
聖霊は、聖書の御言葉を通してキリストの御声を聞かせてくれます。「あなたが安息日に主と呼ぶ私はここにいる」。聖霊の助けを得て、私達は「イエス・キリストこそ我が主・わが神」と告白し続けるのです。

マタイによる福音書 27:57~61
「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。」(27:57) 

 他の福音書を見ると、このヨセフは最高法院の一人であり、主イエスの弟子であることを他のユダヤ人に知られることを恐れて隠していたと言われています。
 マタイ福音書ではヨセフのことを「金持ち」と形容しています。19:22以下に、「金持ちの」青年が出てきます。「永遠の命を得る為に、これ以上何をすればいいか」と悩む青年に、主イエスは「君に足りないのは『誰を求めるか』だ」とおっしゃいました。青年は、財産以上に主イエスへの従いに価値を見いだせず、去って行きました。
 アリマタヤのヨセフは主イエスが青年に示された「誰」を見出だした「金持ち」でした。地上の富に勝る「天の富」を主イエスに見出し身の危険を顧みず、主イエスの遺体を引き取り、墓に埋葬しました。
 「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」(イザ53:9)。ヨセフは主イエスの遺体と共に、「天の富を見えなくさせる何か」も共に葬ったのです。

マタイによる福音書 27:45~56
「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり・・・」(27:50~51) 

 キリストの死の瞬間に起こった出来事を福音書は記しています。聖書の原文では、神殿の垂れ幕は上から「裂かれた」となっています。聖書はこれを、神がご自分の神殿の垂れ幕を、ご自分の独り子の命をもって上から裂かれた御業として証言しています。
 その時、大地が揺れました。神が地の罪を裁かれる時、「地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる」と預言されています(イザ24:19)。
大地が揺れるのを見てまず信仰を告白したのは、主イエスを十字架に打ち付けたローマ兵たちでした。主の十字架は、罪人と神をつなぐ道となりました。キリストの死によって「道」が切り拓かれ、「上から」の招きによって主の下に集う人々がキリスト教会とされ、今の私達があるのです。「イエスは、垂れ幕、つまりご自分の肉を通って、新しい生きた道を私達のために開いてくださいました」(ヘブ10:20)。

マタイによる福音書 27:32~44
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者。神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りてこい。」(27:40) 

 人々は「神の子なら自分を救ってみろ」と言います。「この子は自分の民を罪から救う」(1:21)とヨセフが天使から告げられた通り、主は「ご自分を十字架から」ではなく「ご自分の民を罪から」救うメシアでした。ご自分を救えないのではなく、ご自分を十字架に上げた人たちのために、十字架の上に留まってくださっているのです。メシアにとって十字架から降りる、ということは、罪人を見捨てる、ということでした。
 「神の子なら・・・」という言い方は、サタンの誘惑の口調です(4章)。教会がキリストの体である限り、「教会なら、自分で自分を救ってごらんなさい、信仰という十字架から降りてごらんなさい」という誘惑が追いかけてきます。「楽な道」「安易な道」「うまい話」が教会の周りにはたくさんあります。
 しかし聖書は、嵐の小舟の中で「主よ、助けてください」と祈る信仰を伝えています。私達は船が大きいから乗り込んだのではありません。キリストが乗っていらっしゃるからこの小舟に身を丸ごと乗せたのです。「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」(黙示録2:9)。

マタイによる福音書 27:32~44
「兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」(27:32) 

 偶然そこを通りかかったキレネ出身のシモンという人が主の十字架の木を担がされました。シモンは自分の不運を呪ったでしょう。しかし、この事がシモンの人生を、自分が担った十字架の意味を証しするものへと変えました。
 シモンが巡礼に来ていたエルサレムで主の十字架を担ったことは単なる偶然ではありません。神はこのようにしてシモンを召されたのです。信仰者は、自分の手で信仰を勝ち取っていくのではありません。まさか、という所へと導かれ、主の不思議を見せられ、信じざるを得ないところへと召され、自分が証しの器として用いられていくのです。
 イザヤは「私達が見たことを誰が信じ得ようか」と預言しました。血を流して苦しまれる主イエスが、実は神御自身であったこと、主に罪を担わせた私達が、主の痛みによって罪の涙を拭われること。主を見捨てた私達が今許されて教会へと招かれ、礼拝の恵みに与っていること。全て、信じられないほどの恵みです。

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