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マルコによる福音書 14:22~31
「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(14:24) 

 過越しの食卓で聞いた主イエスの言葉に、弟子達は無言でした。何も言えませんでした。主が苦難の僕(イザ53章)としてこの言葉をおっしゃったことを知るのは、ずっと後になってからです。
 無言の弟子達に、「あなた方は皆私に躓く」とおっしゃいます。弟子達は乱れました。「私は躓きません」。主がおっしゃったのは、責めの言葉ではありません。これからご自分を見捨て、離れ、罪に苦しむことになる弟子達に、「復活した後、ガリラヤで待っている」と、立ち返るべき場所を示されたのです。
 「自分に罪などない、神など必要ない」と嘯いていた自分の罪をあの方が全て背負って十字架へと歩んでくださったことを知った時、私達は驚きます。自分の罪の深さと、既に許されていた、ということに驚きます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11:25)、「神の恵みによって今日の私があるのです」(1コリ15:10)。イエス・キリストに従う信仰生活を送る、ということは、主の恵みに驚かされ続ける、ということではないでしょうか。

マルコによる福音書 14:12~21
「私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」(14:18) 

 過越しの食事を始める前に、主は弟子達の中から裏切り者が出ることをおっしゃいました。弟子達は驚きます。しかし、主はそれが誰なのか、ということはおっしゃいませんでした。ユダの名前を出すと、他の弟子達がユダを取り押さえてしまうでしょう。そうなると、十字架への受難の道も閉ざされます。主は、その道を行かなければなりませんでした。
 ユダは、「お前はここに座る資格はない」とは言われていません。主の晩餐へと招かれています。主イエスを売り渡す約束をした直後のユダこそ、この食卓に最も相応しくない人だったのではないでしょうか。しかし、主がご覧になれば、最も神の赦しを必要とする憐れな罪人だったのです。
 私達は、主を裏切ったユダ、主を見捨てた弟子達を、遠くから眺めることはできません。聖書は「あなたは、ユダではないのか」と問いかけてきます。聖餐の食卓に、傍観者として座ることはできません。
 私達は霊の飢え渇きを覚える、神の憐れみ無しには生きられない罪人だからこそ、教会へと招かれました。主の御受難を思い、罪許された静けさの中を歩んでいきましょう。

マルコによる福音書 14:1~9
「世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(14:9) 

 祭司長たち槍学者たちが主イエスを殺そうと考えていた時、そしてユダが主を裏切ろうとする直前に、ある女性がナルドの香油を主の頭に注ぎかけました。この女性の行為が、主が過越しの子羊として屠られる葬りとなりました。
 「何事にも時があり、天の下の出来事には全て定められた時がある」(コヘ3:1)。この女性は、時をつかみ取りました。「失う時、放つ時」です。「求める時、保つ時」を過ごしていた周りの人達からは「無駄遣いだ」と言われます。しかし、主は、この女性が献身の時をつかみ取ったことで、福音の一部となったことをおっしゃいました。
 私達にもキリストと共に思い出す人がいるのではないでしょうか。そして思い出すのは、その人がキリストのために「捨てる」、献身の姿ではないでしょうか。キリストに出会い、捨てるものを知れたことは、信仰の喜びです。私達はそのようにして重荷を下ろすことが許されるのです。

マルコ福音書13:24~31
「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」(13:24~25) 

 紀元前8世紀、イザヤは神が一つ一つの国の名前を挙げて裁いて行かれる幻を見せられました(イザ13章~34章)。これは世界の破滅ではなく、神がこのように罪を世界から滅ぼし、全ての人を御許へと招かれ日が来る、という救いの幻でした。
 「祈りの家」ではなく、「強盗の巣」となっていた神殿をご覧になって、主イエスは弟子達に神殿崩壊の預言をし、イザヤの言葉をお聞かせになりました。主の神殿崩壊の預言はこの40年後、紀元70年にローマ軍によって現実のものとなりました。84年にもわたる大改修工事が終わって、わずか6年後のことです。
 人の手で作った神殿を失った教会は、そこから無数のキリスト者たちの証しを集め、イエス・キリストの記憶を福音書という形へと結晶化させました。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」という主の言葉は真理でした。
キリスト者は、自分達自身が霊的な神殿とされています。私達自身が、キリストという岩の上に立てられた祈りの家、聖い神殿とされ、世に生かされて、今も用いられているのです。

ペトロの手紙1 2:1~10
「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけの無い霊の乳を慕い求めなさい。」(2:1) 

 ペトロがこの手紙の言葉を語った時代、諸教会は苦しい中を生きていました。外には迫害が、内には誘惑がありました。そのような中で、まず教会が捨て去るべきものをペトロは示します。
悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口・・・全て、教会を内側から破壊する罪の力です。サタンは、誰よりも先に神の子イエス・キリストのもとに行き、荒野で誘惑しました。教会はキリストの体なのですから、罪の力が真っ先に追いかけ、働くのは教会なのです。
 BC8世紀に、預言者アモスが「主の言葉を聞くことの出来ない飢えと渇きが来る」と預言しました。それはまさに罪の荒野です。しかし、キリストはご自分の血と肉を命のパン・命の水として、霊の乳としてお与えくださいました。
 幼子となって神を慕い求める信仰の姿は愚かに見えるかもしれません。しかし、教会のその姿が、多くの人を神へと立ち返らせてきたのです。

ペトロの手紙1 1:13~25
「『主の言葉は永遠に変わることはない』。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(1:25) 

 ペトロは、バビロン捕囚から解放される直前にイスラエルにイザヤが伝えた預言を引用し、「これが福音だ」と言います。
 エルサレムを失い、バビロンで捕囚となり、そのバビロンも衰退する中で、民は朽ちることのないもの求めていました。そんな中でイザヤは「慰めよ、私の民を慰めよ」という神の言葉を聞き、永遠に変わらないものは神の言葉であることを人々に告げたのです。
 ペトロ自身、自分と主イエスは変わらないと考えていました。「この方のためなら牢に入っても、死んでもいい」とまで思いました。しかし、一夜にして変わったのです。
 「私はあなたのために信仰が無くならないように祈った」と言ってくださった主は、復活して再びペトロを迎えてくださいました。「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハ14:16)。
 永遠のインマヌエルという変わることの無い福音が、地上の仮住まいを乗り越えさせてくれる希望なのです。

ペトロの手紙1 1:13~25
「あなたがたは、人それぞれの行いの応じて公平に裁かれる方を『父』と呼び掛けているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」(1:13) 

 今、私達はキリストから「天にまします我らの父よ」と神に呼びかける祈りの言葉を授けてられています。神は罪人を、独り子の血という代償を支払って取り戻してくださいました。恐ろしい程の愛です。そして「私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるか」(マラキ1:6)と呼び掛けられます。
キリストの十字架は、十字架では終わりませんでした。その先で復活の奇跡が起こります。キリストは復活の初穂となられた、とパウロは言います。初穂である、ということは、それに続く実りがある、ということです。それが教会です。
キリストに起こったことが世の終わりに私達にも起こります。この仮住まいの先には永遠の命という希望が示されています。私達が恐れをもって「アッバ父よ」と呼び掛けつつ生きる信仰生活は、永遠の命を証しするものとして用いられます。

ペトロの手紙1 1:13~25
「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活の全ての面で聖なる者となりなさい。」(1:15) 

 ペトロは、教会の「今」は、帰って来られるキリストを待つ備えの時であることを伝えています。そのために、「心を引き締めて」待ちなさいと言います。それは、出エジプトの出発の夜のイスラエルの恰好でした。約束の地を目指すイスラエルの第一歩は、「腰に帯を締めて」子羊を食したのです。
 更に、イスラエルが「聖なる民」として荒野を歩むことを求められたように、教会も聖なる者として世を生きることが求められている、と言います。「聖である」とは「区別された」という意味です。イスラエルがエジプトの奴隷生活から決別したように、私達はキリストを知らなかった自分と決別して生きるのです。
 神の支配は、神の必要に応じて隠されています。畑に隠された宝のように、蒔かれた種のように、全てが目に見えるわけではありません。しかし、「従順な子」(14節)のように自分を丸ごと神に信頼する私達の歩みが、キリストの再臨という「約束の地」がある方向を証しすることになるのです。

ペトロの手紙1 1:10~12
「この救いについては、あなた方に与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。」(1:10) 

 キリストが来られる以前に活動した旧約時代の預言者たちは、教会が生きている「今」のことを預言したのだ、とペトロは言います。メシアの到来を預言し、その姿を見たいと願いつつも、実際に見ることが出来た預言者は一人もいません。
 なぜ預言者たちは、それでも預言を続けることが出来たのでしょうか。預言者たちの内に「キリストの霊」が働き続けたからです。キリストはご自分がお生まれになる前から、世に向かって「私は来る。備えておきなさい」と言い続けて来られたのです。
復活のキリストは弟子達に息(=霊)を吹きかけられました(ヨハ20:22)。教会は、預言者たちの業を引き継いでいます。私達は「神の相続人」です(ロマ8:17)。預言者、キリストが担われた痛みを相続しています。
キリストが十字架の上でご自分を殺す人々のために執成し、ご自分の霊を御手に委ねられた信仰の業が神を証ししたように、我々教会の小さな信仰の歩みは、神の国へと通じる道を世に示していきます。

ペトロの手紙1 1:1~9
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。」(1:8) 

 この手紙を読んだのは、生前の主イエスを知らない世代の人達でした。 主はトマスに「見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃいました。ペトロも同じことを試練の中にある教会に伝えています。
 預言者エリヤは、アラム軍に囲まれた際、目には見えない「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちている」ことを知っていました(列王記下6:15以下)。教会は、このイスラエルの信仰を受け継いでいます。
 教会には試練が与えられます。創世記に、アブラハムが独り子イサクを生贄として捧げる、という試練を乗り越えたことが記されています(創世記22章)。試練はそこで完結したわけではありません。アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの地に、エルサレム神殿が建てられ、神の独り子が生贄として備えられたのです。聖書は、私達に与えられる試練は、「備えられた主の山」に至るための道であることを教えています。

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