マタイによる福音書 4:1~11

「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」(4:1)

 「これは私の愛する子」と神から言われた神の子が、神の霊に導かれた先は荒れ野でした。誘惑の試練を受けるためです。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭う時、誰も、『神に誘惑されている』と言ってはなりません」(ヤコブ1:12)。
 キリストの洗礼の先に荒野があったように、我々の洗礼の先に荒野がある、ということは自然なことではないでしょうか。私達は信仰者として「完成」したから洗礼を受けたのではありません。神の子として、神に育てていただくためです。洗礼を受けたからこそ試練が与えられ、悪魔が自分に近寄ってくるのです。
 主イエスはこの福音書の13章で「毒麦のたとえ」をお話されています。悪魔のことを、種を蒔く存在として語っていらっしゃいます。教会は、神の御言葉の種と、悪魔の毒麦が蒔かれる畑です。神の国は、この畑における我々の戦いを通して実現されていくのです。    

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