イザヤ書6章

「災いだ。わたしは滅ぼされる。私は汚れた唇の者。」(6:5)
 
 BC8世紀、南イスラエル王国で祭司階級にあった青年イザヤは、自国の王ウジヤの死によって、国の将来・自分の前途が真っ暗になりました。北のアッシリア帝国を恐れたのです。
 地上における希望を失ったイザヤに、神は御自分のお姿を示されました。聖なる方の御前に立たされたイザヤは死を覚悟しました。自分の罪を知ったからです。それはウジヤ王の死によるアッシリアへの恐怖以上の恐怖でした。
私達もこの時のイザヤと同じものを神に対して持っています。神の前に崩れ落ちたイザヤに、セラフィム(天使)は赦しを与えました。同様に、キリストが我々の罪を全て背負い、痛み、赦してくださったゆえに、私達の今があります。
 セラフィムの「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と神を讃える声が、そのままイザヤの預言の言葉となりました。イザヤは「神のみを聖とせよ」と伝え続けたのです。我々は誰を聖としているでしょうか。誰によって赦され、生かされているのでしょうか。改めて、自分の歩みを、畏れをもって見つめ直したいと思います。 

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