イザヤ書1:10~17

 「それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。」(1:14)
 

 イスラエルが捧げる礼拝を「重荷である」と神はおっしゃいます。神の言葉らしからぬ言葉です。
 イザヤの使命は、イスラエルの人々が悔い改めて癒されることがないように、心を頑なにさせることでした(6:10)。悔い改めさせるのではなく、悔い改めさせないために遣わされるのです。不思議な使命です。
 神は救いを放棄されたのでしょうか。そうではありません。イスラエルは、「聖なる種子」の一粒になるまで滅びを体験する必要があったのです(6:13)。真の礼拝共同体としての姿が鮮明にされるためです。
 それは、紀元前8世紀においてはイザヤとその弟子達でした。今は、キリスト教会です。神にとって重荷となる礼拝を捧げるか、喜びとなる礼拝を捧げるか。私達はその選択を迫られています。

 

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