マタイによる福音書 24:45~51
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。」(12:45) 

「主人と僕」は、キリストと弟子達、神と教会を表しています。
「忠実」は「信仰」の類義語です。パウロは「私達は神の秘められた計画の管理者です」「我々管理者に要求されるのは忠実であることです」と言っています(1コリ4章)。主に忠実であることの先に、主人の全財産を管理させていただく、つまり主の御業を担わせていただく幸い・祝福が待っています。
悪い僕は、主人の喜びではなく、自分が主人になる喜びを求めました。今自分がいるのは、主人の家であり、自分が殴っているのは主人の僕たちであり、そして自分も本当は主人の僕であるということすら忘れてしまいました。イスラエルが繰り返し陥った、一番大切なことを忘れてしまった信仰者の姿です。「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いた、などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい」(申命記8:17)。
私達の今が、主人が戻って来る時に向かっている今であることを忘れないことが、既に勝利なのです。

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