マタイによる福音書 23:1~12
「彼らが言うことは、全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23:3) 

 ガリラヤの山上でなさったように、主イエスはエルサレム神殿の境内で、「義(契約における誠実さ)」について語られます。律法を研究して「義」に関する知識をもっているはずのファリサイ派の人達が、「義」を行っていないことを批判されます。 
 もともと律法は、荒野のイスラエルに「もうエジプトでの奴隷生活に戻らなくてもいい。この言葉に従い、神を愛し、隣人を愛して聖なる民として生きなさい」と与えられた神の民としての生き方の指針です。
 ファリサイ派の人たちは律法に関する議論を「言い伝え(口伝律法)」として残してきました。しかし彼らの議論は、聖句の入った小箱の大きさや衣服の房の長さ、座る場所といった、律法の本質と違うところでのものになってしまっていました。
律法が自分の評価のために用いられると、罪からの解放へと導く自由の言葉から「重荷」へと変わります。キリストの前に、すべての人は「小さい者」(18章)です。この方お一人を真の教師とし、へりくだって向き合ってこそ神の言葉は輝くのです。

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