マタイによる福音書 20:17~28

「一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(20:27) 

 弟子達に最後の受難予告がされました。主イエスははじめてここで「私達」という主語をつかわれました。これからエルサレムで起こることは、主イエスお一人だけで完結することではなく、弟子達、また信仰者にとって自らのものとしなければならないものなのです。
 その受難予告を聞いても、弟子達はまだ、主の十字架が神の救いの御業であるという「天地創造から隠されていた天の国の秘密」であることを悟っていません。主がおっしゃる「この私が飲もうとしている杯」が何か、「私の右と左」にある座がどこかも、知りません。「あなたがたは自分が何を願っているのか分かっていない」と言われてしまいます。 
 パウロは手紙の中で書いています。「私達が神を賛美する杯は、キリストの血にあずかることではないか。私達が裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」「何をするにしても、全て神の栄光を現わすためにしなさい」(1コリ10:16、31)。
 「十字架の言葉」を聞いた時「主の杯」「主の右と左」を知り、天の国に生きることを始めるのです。

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