マタイによる福音書16:21~28
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(16:22) 

 栄光ではなく受難へと向かうメシアは、弟子達の期待を裏切るメシアでした。
 信仰を守り、伝えるために、イスラエル・教会は、なぜあんなに苦しんだのでしょうか。罪の力の抵抗が激しいからです。「神はあなたを愛し、求めていらっしゃる」と伝えるだけで、痛みが伴うのです。
 使徒パウロは書いています。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリ1:18)。
 私達にとって、キリストの十字架こそ人間の思いをはるかに超えたしるし・知恵です。主イエスは後に「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」(20:28)とおっしゃいました。その痛みに与るよう主は弟子達を招かれます。
 同胞が一人また一人と神に背を向けていくイスラエルの中で、信仰に留まる霊的な戦いを続けながら痛みをもって信仰を次の世代に残した人たちがいました。信仰の生命線となるよう、私達も召されているのです。

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