マタイによる福音書 9:18~26
「『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」(9:22) 

 「ある指導者」も、「出血が続いていた女」も、主イエスに求めたことは同じでした。「この方に手を置いてほしい」「この方の服に触れさえすれば」ということです。死・病との接触は「汚れ」とされていた中で、それを求めることは非常識だったでしょう。
 この二人はもうキリストしか残されていない人たちです。悲惨の中で、切羽詰まって必死に「もうこの方しかない」と求めました。父親の許ししか望みが無くなり家に帰って来た時の、あのボロボロになった放蕩息子の姿こそ、信仰者の姿です。主は女性を「娘よ」と呼ばれました。主は、放蕩息子の父のように、ご自分のもとに立ち返る人をご自分の子として受け入れてくださるのです(9:2)。
信仰者は、自分の命をどなたにお任せすればいいかを知っています。死を前にしても秩序を失いません。教会は、その信仰ゆえに「神があなたたちと共におられると聞いた」と言われ、今度は自分たちの服が握られることになるのです(ゼカ8:23)。私達が一点の光を見失わないことが、世の光となるのです。

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