マタイによる福音書 6:5~18
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」(6:14)

 人を赦す、ということが、神に赦していただく条件なのでしょうか。この言葉だけを読むと、そう理解できます。
 しかし、20:1以下の「ぶどう園の労働者のたとえ」では、少ししか働いていない労働者にも一日分の賃金を払う主人のことが語られ、神の国の恵み・赦しの不思議が示されています。
 この文脈での「人の過ち」は、18:21のペトロの質問にあるように、信仰の兄弟が自分に犯す罪でしょう。ペトロは、自分が
「赦す側」に立って話をしています。しかし、ペトロ自身、主から「サタン」と呼ばれたことがあります(16:23)。山上の説教を読む我々も、実は「赦していただく側」にまず立たなければならないのではないでしょうか。
 「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」と主は最後の晩餐でおっしゃいました。 主イエスの血によって赦された私達は、その血に与ることによって、赦す共同体として歩むことをキリストは期待していらっしゃるのです。                           

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